第54話 うららかな春の日のことだった

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第54話 うららかな春の日のことだった

 元気が千夏の元から居なくなって、数ヶ月が経った。  季節は巡って、再び春がやってくる。  千夏が八坂不動産管理に異動になってから一年。そこで高村元気と出会ってからも、一年が経とうとしていた。  元気の両親とは、彼の殺害事件の捜査に協力する際に面識ができていた。  晴高が、生前彼と友人関係にあり、彼から手紙を託されていたという筋書きにしてあったため、彼の両親から一度会って話したいという連絡がくる。  呼ばれたのは晴高一人だったが、彼は千夏も「一緒にくるか?」と誘ってくれた。  千夏は公的には、元気とは何の関係性もないことになっている。  それどころか元気と面識があるはずがないのだ。千夏が八坂不動産管理水道橋支店に異動してきたのは彼の死後、三年も経ってからのことなのだから。  それでも千夏は晴高の誘いに乗った。元気が生きていた痕跡をこの目で見てみたかったから。  桜が満開を過ぎて、花びらが地面を薄桃色に変えていた土曜日。  千夏と晴高は、高村元気の実家を訪れた。彼の実家は、以前彼が言っていたように登戸から少し歩いたところにある住宅街にあった。  インターホンを押すなりすぐに出てきてくれた元気の母は、千夏と晴高の姿を見ると「遠いところをわざわざ、よくおいでくださいました」と、目じりを下げて二人の手を握った。  見てすぐに、その人が元気の母親だとわかる。穏やかな目じりが、元気にそっくりだった。その後ろから出てきた彼の父親も、彼とよく似た髪質をした背が高く優しそうな男性だった。  まず、千夏たちは奥の仏間に通される。そこには小ぶりだがセンスの良い仏壇が置かれていて、その前に写真立てに入れられた一枚の写真が飾られていた。  生前の高村元気の写真だ。  仏壇に手を合わせて、千夏はその写真にじっと目をやる。 (元気が、生きていたころの姿……)  考えてみると、あれだけ一緒にいたのに、彼の生きていたころの姿を見たのはこれが初めてだった。元気の母の話によると、遺影に使った写真なのだという。  写真の中で朗らかに笑う元気は、千夏の知っている彼だった。見ている人を安心させ、あたたかな気持ちにさせてくれる彼の笑顔。いまはもう、記憶の中にしかない懐かしい彼。 (元気、今頃どうしているんだろう)  死後の世界がどうなっているのかは知らないけれど、きっと彼ならうまくやっているのだろうと千夏は信じている。  そのあと小一時間、晴高と元気の両親が話すのを千夏は横で黙って聞いていた。自分は元気とは直接面識がないことになっているので、ボロが出ないように口をはさむことはしない。  晴高が話す元気の話は、どうやって知り合ったかという部分以外は本当の話のようだった。ただし、今から四年以上前の話ではなく、つい数か月前の彼の姿ではあるけれど。  晴高の話は千夏が知っているものもあったが、始めて聞く話もあって新鮮だった。  千夏は知らなかったが、元気と晴高は一緒に酒を飲みに行ったこともあったらしい。同い年の彼らは、なんだかんだでお互いに友人としてやっていたようだ。  晴高の話を聞きながら、元気の両親は生前の息子の姿を思い浮かべていたのだろう。母親は始終ハンカチを片手に目じりを拭いていたし、父親はずっとこちらにやさしい目を向けて何度も頷き返していた。  千夏にとっても、久しぶりに元気に会えた気がして嬉しいひとときだった。  始終和やかに訪問を終えて、高村家を後にする。電車で家へと向かう途中で、千夏はふと思い立って途中下車することにした。 「晴高さん。私、次の駅でちょっと寄り道していきます」  次に着く駅名表示を見て、晴高も千夏がどこへ行こうとしているのかわかったのだろう。 「わかった。じゃあ、また月曜に」  と、素っ気ない言葉が返ってくるだけで、彼は一緒に来るとは言わなかった。その気遣いが有難い。  千夏はぺこりと頭を下げると、電車を降りた。  そして駅前の花屋で花束を買うと、地図アプリを見ながら目的の場所へと向かった。 「あった……この交差点だ」  そこは駅から少し歩いたところにある交差点だった。  四年前の春、高村元気が交通事故にあった場所。この路上で、彼は亡くなったのだ。  春のあたたかな風が吹くたびに、街路に植えられた桜の花びらが舞う。  千夏は交差点の横断歩道の脇にしゃがむと、持ってきた花束を置いて手を合わせた。しばらく拝んだ後、ゆっくりと立ち上がって横断歩道を眺める。  亡くなる直前、彼は当時付き合っていた彼女と会うために、胸ポケットに婚約指輪を忍ばせてこの道を渡っていた。  そのときの彼の姿が目に浮かぶようだった。  無意識に千夏は自分の指にはまった二つのリングを触る。左薬指にあるのはピンクゴールドのリング。左親指は元々元気が身につけていたシルバーのリングだ。二つはいまも、千夏の左手に輝いている。  桜吹雪が舞う、穏やかで静かな横断歩道。  信号が青になった。その横断歩道の先を千夏は見つめるが、動けない。通行人が次々と千夏の横を通り過ぎて渡っていく。それでも、千夏は歩き出すことはできず、ただその先を見つめていた。信号は赤に変わり、車道を何台も車が通り過ぎていく。そして、再び青になり、赤に変わり、何度繰り返しただろうか。    もう何度目かわからない青信号。  いつまでも渡らない千夏を不思議そうにしながら、人々が通り過ぎて行く。  それでも足が動かない。  そのとき。すぐ隣に人の気配を感じた。  背の高い人影。  ついで、柔らかな声を掛けられる。 「青だよ。渡らないの?」  聞き覚えのある声だった。忘れるはずもない、懐かしい声。  千夏は、ハッと顔を上げると隣を見た。  瞬間、驚きと喜びで涙が溢れだした。 「元、気……」  彼が立っていた。初めて会ったときと変わらないスーツ姿。ふわふわとした茶色みのある髪で、はにかんだ笑みを浮かべている彼。 「なんで……!」  千夏は驚きで叫びだしそうになるのをこらえながら、それだけをなんとか口にした。成仏したはずの彼がなぜここにいるのか。もしかして、これは自分が見ている幻覚なんじゃないかとすら疑った。彼を想いすぎるあまりに、彼を幻視するようになったんじゃないかと。  しかし、目の前の彼は消えてしまうこともなく、頭を掻くと嬉しそうに目尻を下げて微笑んだ。 「やっと、戻ってこれた」 「で、でも……成仏したはずじゃ……」  目の前の光景が信じられなかった。 「したよ。そんで、あっち側に行った。だからもう俺、浮遊霊じゃないんだ。昇格?っていうか。守護霊とかいうやつになったんだ。でも、生きてる人間には姿を見せちゃいけないって言われて。そのあたりの調整に手間取って遅くなっちゃった」  そう元気は申し訳なさそうに言うが、千夏は次から次へと湧き出てくる涙を振り払うように首を横に振った。  そして、笑顔になる。涙は止まらなかったが、悲しい涙じゃないから。 「元気。おかえり」  元気も、柔らかな春の木漏れ日のような笑顔で返す。 「ただいま。千夏」  たまらず、千夏は元気に抱きついた。存在を確かめるように強く強く抱きしめる。  たしかに、そこに元気がいた。彼のぬくもりがあった。  それは桜の舞う、よく晴れたうららかな春の日のことだった。  数日後。  職場でのこと。  晴高は自販機横のベンチで、昼休憩の残り時間を缶コーヒーを飲んで過ごしていた。  隣には、成仏したはずなのにまた千夏とともにひょっこりと出勤してくるようになった元気が、同じコーヒーを手にして座っている。守護霊になったとか言ってたが、晴高の知る限りこんなに表に出てくる守護霊なんて聞いたことがない。相変わらず、存在自体がふざけた奴だ。 「なあ、お前。守護霊ってことはずっと千夏のそばにいるんだよな?」  晴高が缶コーヒーを飲みながら聞くと、元気は両手で缶を包み込むようにして持ちながら、うんと答えた。そういえば、こいつ熱いものがダメなんだっけか。 「そうだけど」 「じゃあさ。もしどっちかが心変わりしたらどうすんだよ。男女の関係なら、今後どうなるかなんてわからないよな?」  生きてるもの同士なら別れてそれでお(しま)いだ。浮遊霊と生きている人間という関係でさえも、別れることはできた。しかし、守護霊とその対象となるとそうはいかないだろう。 「もちろん、その可能性も考えたさ。でも例えそうなったとしても、俺がこれからも彼女を守り続けることには変りはないよ。千夏がもし、俺じゃない誰かを好きになってそいつと家庭を持ちたいと思うようになったら、そんときは俺もほかの守護霊たちと同じように視えなくなるだけさ」  そう言って、元気は笑った。守護霊という存在になるにあたって、こいつもこいつなりに覚悟を決めてきたんだなというのがその言葉から伺える。 「そうか」  もっとも、千夏のあの嬉しそうな様子を見る限り、そんな心配をする必要はなさそうだけどな。そんなことを思いながら、晴高は立ち上がって、自販機脇の缶入れに空き缶を捨てた。  デスクに戻ろうとしたら、後ろから元気の声が引き止める。 「お前だってさ」  晴高は振り返る。元気はようやく飲める温度にまで冷めたのか、缶コーヒーのプルタブを開けてコクリと一口飲んだ。 「いるよ。お前の隣に、華奈子さん」  元気の指摘に、晴高は驚いた。しかし、すぐにその顔にふわりと小さな笑顔がこぼれる。 「そうか」  元気も、やわらかく目を細めた。 「誰でもさ。亡くなった大切な人は、そばにいるんだよ。そうして、まだ生きてる人のことを見守ってるんだ。だって、生きている人が死んだ人を想うのと同じように、俺らだって生きてる人のことを想うし、そばにいたいんだよ」  死は人を(へだ)ててしまう。  でも人の心は、なくならない。  誰かを想う気持ちは、いつまでもなくならない。  そう言って、元気は穏やかに笑うのだった。 (完)
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