プロローグ

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プロローグ

暗い曇天の昼過ぎ、小高い丘を覆う白い花畑を行く人影が一つ。黒いマントに身を包んでいるため、顔は見えない。上質なビロード生地が、風にはためいた。一見、モノクロ写真の様な風景だ。草木も、小さな町並みも、本来の色を失っている様に見えた。まるで、全て頭上の雲に吸い込まれてしまったかのように。 人影は、ふと立ち止まると、優雅な動きでかがんだ。花と同じく純白の手袋をはめた右手が伸びる。長く繊細な指で、細い茎を引きちぎると、小気味良い音がした。ふらふらと風に流されそうな花弁は、この花が既に盛りを過ぎていることを知らせていた。 人影は、大降りなフードからのぞく形のよい鼻に、そっと花を寄せる。独特な甘い香りは消えてしまっていた。 その時、遠方の空が赤く光った。 グレーの暗雲は、水蒸気なのか爆煙なのか。はっきりとしない。 また一つ、赤く反射した。 遅れて音が来る。 微かな爆音は、命の花火が散った証拠。 数々の強国が連なる大陸。その中央に位置するこの国は、常に戦火が絶えなかった。 「ここもそろそろ潮時かしらねぇ。花の季節は終わってしまったし、ここは火薬臭いわ。」 彼方の戦火よりも深い紅の口から、若く美しい女声が響いた。 すると、フードの中から一匹の蜂が現れた。 花の花弁の様に弱々しい羽音が、爆音に消される。黒と黄の縞模様の蜂は、フードの人物に何かを訴えかけるように、丸い体でふらりふらりと飛び回った。 「新しい蜜畑がある?…ふぅん、北西にあるスーズミーズ樹林、ね。立派なニセアカシアがあるのね!でも、あそこってかなり遠いわよね。どこで聞いたの?え、虫の噂?マルハナバチのコミュニティって素晴らしいわねぇ。」 左手の人差し指で、第一関節ほどしかない(しもべ)を撫でると、その羽音が僅かに元気を取り戻した。 すると、そっと耳打ちをするかのように、主の耳元まで近づいた。 「アカシアの森の所有者は…あら、アンドル・ホルヴァート氏?どこかで聞いた名ね。確か…戦争孤児を引き取っている慈善家だったかしら。んフッ、ちょっと楽しみになってきちゃった。感謝するわ!あなたはよく働いてくれた。もう仲間の元でお休みなさいな。」 最後に、小さな家臣は女王の頬に別れのキスをして、どこかへ飛んでいってしまった。 深紅の唇は、愛しい我が子の旅立ちを惜しむように微かに開かれたが、直ぐに美しい弧を描いた。 「さあ、お仕事お仕事。おいしい蜂蜜、院長先生にお届けしなくちゃ。」 女王蜂は、鈍い戦火に背を向けた。 その赤い口元は、自信と期待に満ち溢れていた。
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