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使用人 ジャック=ビースレイ
ユ・アーロンの町は、都市部より北西に位置する田舎町である。近代に入った今でも、おとぎ話の世界を彷彿とさせる町並みを維持する、歴史ある土地だ。戦前は隣国から国境を越えて訪れる旅人で賑わった観光地だが、ホルヴァート孤児院の使用人、ジャック=ビースレイの知るユ・アーロンは、そんな華々しいものではない。
日暮れ時の町を歩いていると、肥えた富裕層の老人からハエの集る物乞いの子供まで、様々な人間とすれ違う。戦争とは皮肉なものだ。お国のために命を捧げた若者たちの屍の上で、綺麗な身なりの大人が私腹を肥やす。稼ぎ頭を失った家の子供はボロを纏って働き、女は夜の町に出る。
おとぎ話の風景で営まれる暮らしは、汚ならしい現実で満たされている。故にジャックは、この町をログレスの都に例えたことも、自分が辿る帰路の先に佇む立派な石造りの屋敷を、キャメロット城と被せて見たこともない。そもそも、そんな子供じみた思想に更ける暇も彼にはなかった。
乞食ほどではなくとも、同年代の少年よりは幼く華奢な姿。13年で染み付いた猫背が、より小さく見せているのかもしれない。無造作に伸ばされた黒髪は、白いリボンで綺麗に束ねられていた。主人を不快にさせてしまわないよう、執事長が与えたリボンだ。彼が少女と見間違われる一因は、これにある。
しかし彼の目を見れば、負け犬じみた劣等感も少女のようなか弱さも備わっていないことが瞬時にわかる。ライトグレーの瞳に、年不相応の苦労と知性を宿す彼は、まるでそれを隠すかのように長い前髪を垂らしていた。
大きな紙袋を抱え、緩やかな丘に敷かれた一本道を登って行く。
「おい見ろよ、蜂野郎だぜ。」
「違うね、あれは蜂女だ。だってリボンがよく似合ってるじゃないか。」
前方でたむろする一団から汚い笑い声が上がった。新品のシルクのカッターシャツと上質な上下に身を包んだ少年達が、ジャックを嘲笑った。
歳はジャックとそう変わらないが、戦時中でも十分な食事を取り、放課後はラグビーやサッカーに興じる彼らは、健全でとても立派な体躯をしていた。
関わると厄介だと判断したジャックは、そのまま気づかぬふりをして通りすぎようとした。しかし、ジャックを『蜂女』と呼んだ少年が、薄ら笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。『ビースレイ』の名前から『bee』つまり『蜂』をとってそう名付けたのは彼だった。
名をフェルディナーンドと言う。色白だが血色の良い精悍な顔立ちに、アーモンド色の双眸、ワックスで撫で付けたブロンドヘアーを軽く崩した、所謂男前というやつだ。ユ・アーロンの少女はみな彼に憧れる。では、フェルディナーンドを取り巻く少年達もまた美形かと言うと、そうでもない。
出っ歯のチャバ、筋肉質な大男のヤーコブ、糸目のティボル。明らかに彼より劣った容姿である。ジャックは、フェルディナーンドが自分と同等かそれ以上の容姿の少年とつるむ姿を見たことがない。しかし、彼の周囲には常に人がいた。ジャックにはない人望が彼にはあった。ジャックを貶めて手に入れたヒエラルキーの頂点、とも言うだろうか。
「やあ、チィツァ(猫ちゃん)!重そうな荷物だね、俺が変わってあげるよ」
ジャックが断る間髪も与えずに、フェルディナーンドが紙袋を片手でつまみ上げた。
「中身は、、、リンゴかな?」
わざとらしく袋を振り、乱暴に投げた。
ジャックは咄嗟に袋を追ったが、大男のヤーコブが先にキャッチしてしまった。
「これ、ガリガリの蜂女には重すぎねぇか?」
「返せ」
ヤーコブは、チャバにパスをした。
「ひゃはっ、本当だ!なあ、俺らでちょっと減らしてやろうぜ!」
チャバはティボルに、ティボルはヤーコブに。
ジャックは、覇気の無い動きでボコボコと膨らむ袋を追った。
しかし、袋がヤーコブの手に落ちた瞬間、紙が限界を迎えた。底の接着面が音をたてて破けた。
赤く熟れた実が、春の雨で湿気た地面に転がる。
声変わりを迎えた不安定な声が、掠れた笑い声を生む。
ジャックは立ち止まった。
驚きと怒りからではない。
やっとこのくだらない遊戯から抜け出せると思ったからである。
「手伝うよ、チィツァ」
ジャックは燕尾服を脱いだ。フェルディナーンドの言葉には全く反応を見せず、泥の付いたリンゴに手を伸ばす。
フェルディナーンドの逞しい右手が、唯一袋に残ったリンゴを取った。何食わぬ顔でリンゴを拾うジャックを見下ろすと、口角を上げた。
「残ったのはこれだけか…。残念だね、それじゃあ」
「ぐっ…!」
燕尾服と同じ黒いベストを着た腹に、フェルディナーンドの強烈な蹴りが入る。綺麗に磨かれた革靴の爪先は、尖っていた。
ジャックは胃液を吐きながら、仰向けに倒れた。
燕尾服から手が離れ、集めていたリンゴがこぼれ落ちる。
間髪入れずに、フェルディナーンドは手にしたリンゴをジャックの小さな口に押し付けた。
ジャックは強かに頭を打ち付けた。
「ぁがっ…!」
犬歯が硬い皮を破く音がした。
しかし、リンゴの蜜より先に、血の味が口いっぱいに広がった。
「美味しい?」
ジャックの目に涙が浮かんだ。
しかし、ジャックは泣いていなかった。
乱れた前髪から覗く瞳は、ただ茜色の空を映していた。
フェルディナーンドは舌打ちをした。
「なんだ、その目は。ほら、食えよ蜂女!芯までだ!残したら痛い目みるぞ」
ジャックはゆっくりと口を動かした。次第にその動きは早くなった。息が苦しかったのだ。頬に生理的な涙が伝う。
少年たちは満足そうにそれを見ていた。
鉄面皮を歪ませることが、娯楽だとでもいうように。だが、フェルディナーンドは気がついていない。その美しい顔が、愉悦に歪んでいることに。
「なあ、ジャック=ビースレイ。これじゃあご主人様に怒られちまうな?大事な食料ダメにしたうえに、綺麗なリンゴは芯まで食べたときた。これはお仕置きもんだなぁ。まあ、マゾの蜂女には願ったりか」
齧る、咀嚼する、飲み込む、鼻で息をする、そして噛る。
笑い声が遠く感じる。
ジャックは、頭に靄がかかる感覚に襲われた。
これは、自己防衛本能から彼の脳が覚えた術だった。何事も、時間が過ぎれば終わる。満足すれば、相手の方が飽きるのだから。自分はただ従えばいい。何も考えずに、感じずに。
齧る、咀嚼、嚥下、呼吸、齧る、咀嚼、嗚咽、鼻呼吸、嚥下、呼吸、呼吸、齧る
気がつけば、夕日は地平線の下で眠り、代わりに下弦の月が起き出していた。暗幕の様な夜空の下に広がる町には、明かりが灯っている。
周囲には誰もいない。
口の中には、リンゴの渋みと鈍い痛みが残っていた。涙と唾液、果汁は乾いてしまっていた。
傷だらけのリンゴがそこら中に散らばっていた。土の付着した傷物は、一つも減っていなかった。
ジャックはこう考えた。
リンゴがもったいない、と。
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