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ホルヴァート孤児院
ユ・アーロン以北には、アカシアの樹林が広がっている。スーズミーズの森、通称『処女蜜の森』。その入り口に厳かに佇む、一軒の古い石造建築『ホルヴァート孤児院』。
この森の所有者、ホルヴァート家の別荘であった屋敷を改装した孤児院である。
主に戦争孤児を受け入れ、現在は疎開先としていくつかの村から子供たちが集められている。地元の学校とも提携しており、孤児院の子供たちは戦時中でも教育を受けることができた。学校へ通えない貧困層の少女にとっては、文字や数字を覚えられる貴重な体験である。
戦争孤児や乞食を受け入れたり、疎開先として別荘や屋敷を提供する慈善家は数あれど、ここまで養育に力を入れる孤児院は珍しい。
この国の上流階級は、慈善家を語る金の亡者たちで溢れ返っている。
しかし、ホルヴァート家の現当主アンドル=ホルヴァート氏は、それらの偽善家たちとは毛色が違った。
都市で大病院を経営するホルヴァート氏は、その厳格な見た目通り、公私共に差別や贔屓を許さない医者だった。骨折を訴える大企業の社長がいくら積もうと、自動車に跳ねられた靴磨きの少年の施術を優先した。妻を軽んじることもなく、長男や長女、次女には等しく教育と自由と愛情を与えた。
彼は、弟のエンドレにも同じ跡取りとして対等に接した。
先代である父が他界した後、医院を継いだアンドルは、孤児院を開設。そして、医院の幹部だったエンドレを院長に推薦し、孤児院の経営を一任したのであった。
医者としてあまり優秀ではなかったが、決して愚か者ではない弟には、経営者の地位が向いていると判断したためである。
どんな事情があろうとも、私情は挟まず適材適所に送る。彼は、それが弟のためになると信じていた。
しかし、エンドレ=ホルヴァートという男は、兄の采配を追放と捉えていた。
この初老の紳士は兄のような実力も善良さも、持ち合わせていなかった。唯一の共通点と言えば、プライドの高さだろうか。兄同様に鈎鼻につり目といったきつい印象を与える顔が、それを物語っていた。
体格は、一般的な初老の男性より立派な体格をしていたが、脂の浮いた白髪に、眉間に濃く刻まれた皺、むしろ兄より老け込んで見えた。
だが、数字に強く、強かで冷酷なため、社交性や印象を省けば、ある意味賢く優秀な経営者であると言えた。
本邸の最上階、濃紺のカーペットが敷かれた廊下の突き当たりに位置する院長室にて、エンドレは書類の処理をしていた。
春とは言え、北部に位置するユ・アーロンの夜は冷える。豪奢な暖炉では、時折薪が音をたてて燃えていた。光源は、暖炉の炎とデスクのアルコールランプのみだった。
エンドレにとって、落ち着く明るさだった。
突然、両開きの重厚な扉が三回ノックされた。
「父さん、俺です」
声変わりを迎え、大人に成り始めた少年の声。
「入りなさい」
入室の挨拶と共に、フェルディナーンドが自信に満ちた面持ちでまっすぐデスクに向かって来る。
「お仕事中申し訳ありません。しかし、父さんに折り入ってご相談がありまして。その…」
『ビースレイのことなのですが』
エンドレはその言葉に反応した。
「どれ、話してみなさい」
フェルディナーンドはほくそ笑んだ。
「俺は前々からビースレイには優しく接するよう心がけていたのですが、どうも彼はそれが好ましくないようでして。今日はリンゴを持つのを手伝ってやると申し出たのに、無視を決め込まれてしまいました。彼が孤児院で働きだしてもうすぐ1年が経ちますが、一向に心を開いてくれません」
形のいい眉が悲しげにひそめられた。
ジャックにリンゴを食わせた手は、辛そうに胸に当てられた。
「正直、俺は彼が不気味で仕方ない。あの何も映さない瞳や、何を考えているかわからない無表情が、気持ち悪いんですよ。町のみんな、思っていることです。彼は給仕たちの荷物にしかなっていない。何故、彼をいつまでもここに置いておくのですか?」
エンドレは書類を整えると、ペンを置いた。
ため息を吐きながら、デスクに右肘を乗せ、頬杖をついた。これは彼の癖だった。
「そんなことがあったのか。そうだな、置いておく理由だが、主に2つある」
エンドレは、左手の指を2本立てた。
「1つ目は、知っての通りジャック=ビースレイは私の兄に借りがあることだ。それを返すべく彼は雇われた。本来なら、銀行に借金をしてお代を払わねばならぬところを、あの偽善者に救われたことでな」
エンドレは忌々しそうに眉間に皺を寄せた。
「確かにお前の言う通り、あれは仕事をろくにこなせない愚図だ。だが、」
息子より暗いブラウンの瞳と、立派な口髭を湛えた口が、僅かに弧を描いた。
「下手物には下手物の適材適所があるものだ。あれの場合、それが偶然『被虐対象』だっただけのこと。」
フェルディナーンドの背筋に悪寒が走った。全身の筋肉が硬直する。それは紛れもなく、普段決して見せることのない、父の『笑顔』であった。普段光を灯さない双眸は、アルコールランプのオレンジ色の明かりに照らされ、薄暗闇で鈍く輝いた。
『Sadist』
近隣の国では彼のような人格者をそう呼ぶ。フェルディナーンドは、この言葉が大層気に入っていた。
「戦争は戦士の心身を蝕む。そんな時、彼らは本能で『生け贄』を選ぶ。共に死線を駆ける戦友の中からだ。たった一人でいい。その犠牲だけで後の大多数が戦意を取り戻すわけだからな。そして、『生け贄』が潰れれば、また一人選べばいい」
フェルディナーンドは目を逸らせなかった。ただ、背に手を組み父の言葉に耳を傾けた。
「以上のシステムは、人として当然の心理だ。つまり、安全圏にいる私達とて変わらない。この鬱屈とした日常には、スパイスがいるんだ。全員の憤怒、悲壮、羞恥、それら負の感情を背負わせる『生け贄』が必要だ。それが、ジャック=ビースレイという少年の仕事だ。少々不気味なのは仕方がない。感情が薄い分、そう簡単には壊れないのがあれの利点だ」
フェルディナーンドは、感極まったようにため息をつくと、尊敬する父に拍手を送った。
「素晴らしい!そうか、所謂『スケープゴート』ですね。流石です。まさか俺達の慰みにと置かれていたとは考えもせず、至らぬことを申しました」
「構わない。だが、お前が苦痛に感じるようならば、あれを排除することも考慮するが」
「いえ、折角の父さんのお心遣い、ありがたく使わせていただきます」
恭しく礼を述べる息子を、エンドレは光の無い目で見つめた。
「そうか。退がって良いぞ」
フェルディナーンドは踵を返し、扉へ向かった。再度一礼すると、扉を開き、一歩踏み出したその時だった。
「お前はもう十分楽しんでいるものと思っていたが、どうやら一分にも満ちていなかったようだな」
再びフェルディナーンドの体に嬉しい緊張が走った。
そしてゆっくり振り返ると、最後に父に満面の笑みを向けて会釈をし、院長室を去った。
エンドレは、息子がまた一つ支配者としての資質を磨いたことに、満足を覚えた。
デスクの抽斗から上等な葉巻を一本と、マッチ箱、シガーカッターを取り出すと、葉巻のキャップをカットした。そして、赤い先端を箱で擦った。揺れるマッチの火が消えてしまう前に、葉巻に着火する。それを掌の上で転がし、満遍なく火を回すと、口に咥えた。
一呼吸すると、煙草の煙が口内から鼻腔を通り抜けた。その香りを十分に楽しむと、ゆっくりと煙を吐き出した。
彼にとって、静かな夜は至福の一時であった。
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