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バンブルビー・クイーン
屋敷の裏に広がるスーズミーズ樹林。そのニセアカシアが、白い花をつけ始めた頃、エンドレ=ホルヴァート氏の元に1通の便りが届いた。
執事長ルーリンツは、庭先のポストからそれを発見した。
夜会の招待状や請求書に紛れていたのは、甘い香りのする黄色い封筒だった。
金色の封蝋には、蜂とチェスのクイーンが刻まれていた。
ルーリンツは怪訝な表情を浮かべると、怪しげな郵便物を裏返し、送り主の名を確認した。
名前があるはずの場所には、グロキシニアの花の刻印が刻まれていた。
悪質ないたずらだろうか。
再び表に返すと、午後の木漏れ日を反射して、封蝋が輝いた。蜜蝋に捺された蜂とクイーン。そして、グロキシニアの花。
ふと、最近耳にした噂を思い出した。
皺の刻まれた額に脂汗が伝う。
彼は躊躇した。
これを主人に届けるべきか否か。
聡明な彼からすれば、それは不幸の手紙だったためだ。巷で聞いた噂は、破滅を迎えたものが大半だった。
しかし、ルーリンツはただの執事長に過ぎない。
主宛の郵便物を許可も無く処分することは許されない。規律を重んじる彼は、己の信条を破ることなどできなかった。
ルーリンツは院長室へと赴いた。
「エンドレ様、お時間よろしいでしょうか?」
「構わない」
挨拶と共にルーリンツは院長室に入室した。
デスクで読書をしていた主に郵便物の束を渡すと、唯一束ねられていなかったそれを差し出した。
眉を潜めながら受け取った主だったが、その宛名に目を通した瞬間、表情が変わった。院長室に緊張が走る。
彼は震える手でペーパーナイフを掴むと、丁寧に封を解いた。
内包されていた蜂蜜色の便箋にはこう記されていた。
─親愛なるエンドレ=ホルヴァート様──
北の地にも春が訪れましたね。スーズミーズのアカシアは、はち切れそうな期待を貯めて、春風を待ちわびています。森の住人達の目覚めを祝うカーニバルの、フィナーレを飾るために。
しかし彼らの出番は、憐れにもその一瞬だけ。純白の花びらが地に落ちてしまえば、後は枯れ行くのみ。その中に蓄えられた甘露は、虫や鳥がわずかに舐めただけで、干からびてしまいます。
私は悲しい。
極上の蜜が人知れず渇れていたことが。
そんな時、あなたのお噂を耳にいたしました。
聡明で堅実なあなたなら、私の憂いを晴らしてくださるに違いない、そう思いこの文をしたためました。
もし、あなたが私の噂をお聞きになったのなら、この身が国に追われていることもご存知のはず。
私の願いを聞き入れてくださるとは、すなわちそういうことです。
この手紙を警察に提出なさっても、暖炉の火にくべられても、山羊に与えられても、一向に構いません。
しかし、私はあなたの意向を受け入れた上で改めてお願い申し上げたいのです。
牡牛月 5日 0時0分
「処女蜜の森」西部、「駒鳥の草原」にて
「処刑台の切り株」の上でお待ちしております。
良いお返事が聞けることを、楽しみにしております。
追記
春とは言え、深夜の森は凍える寒さです。
お体には十分お気をつけてくださいな。
この花は細やかな気持ちです。
お納めください。
─マルハナバチの女王 グロキシニアより──
甘い香りの正体は、同封されていたニセアカシアの花だった。しかし、それはルーリンツの知る香りではなかった。
甘さの中に、刺激と爽やかさを含んだ不思議な香は、人を惹き付けて離さない何かがあった。
彼は思わず後退りをした。
「エンドレ様。お言葉ですが、私めの存じ上げる限り、その者と関わることは回避するべきでしょう。先日、南方の領主が一人、失墜いたしました。その一月ほど前から、その領主はグロキシニアと名乗る者と接触していたそうです。そして、最後は…」
「聞けば、その領主は薬物にも手を出していたそうだな。愚かなものだ。」
壮年の執事は、賢かった。そして、長年の経験から身に付いた勘が、このグロキシニアという存在の危うさを全力で訴えていた。
しかし、事は既に手遅れだった。
いや、例え彼が手紙を処分していたとしても、いずれはこうなっていたのかも知れない。
老執事の主人は、花の香りを楽しみながら、ベランダへと足を運んだ。
半円形のベランダの右手には、スーズミーズ樹林が広がっていた。
養蜂に興味のない彼にとって、この樹林には材木以上の価値を見出だせなかった。
しかし、この広大な森に咲く花が、極上の嗜好品へと変わるのならどうだろう。
この手紙は、それを実現し得る女王蜂から届いた、カーニバルの招待状だ。
バンブルビークイーン
彼はこの名を知っていた。
そして、待ちわびていた。
エンドレは、自分がどんな表情をしているか容易に想像できた。
「ルーリンツ、明日の晩餐会は欠席とする。コヴァーチ氏には至急連絡をするように。私は夜更け頃留守にする。」
ルーリンツは見ていた、紳士然としたその後ろ姿を。そして、見えていた。その内に隠された、子供の様に無邪気な興奮が。
しかし、それは執事とは無縁の領域である。
彼は主人の右手であり、脳ではない。
「…かしこましました。」
額の汗はひいていた。
血の気が戻りつつある顔には、何の表情も浮かんではいなかった。
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