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手を伸ばすが届かない。暗闇の中で恵莉がゆっくり振り返った。声が聞こえない。唇の動きを凝視する。
(さようなら)
樹は反射的に目を開けた。
体を起こすと辺りは薄暗闇。静寂の中、時計の秒針の音だけが響く。午前4時。ひどい汗だ。
ダイニングテーブルに突っ伏して寝てしまっていた。テーブルに置いていたスマートフォンにはなんの通知もない。
樹は昨晩、妻の恵莉と喧嘩をしていた。
喧嘩をすると恵莉が家を飛び出すのはいつものことだ。1、2時間すると帰ってくる。ところが昨晩は夜中の12時をすぎても帰らなかった。
樹は心配になった。まさか事故にあったのではないだろうか。もしかしたら事件。そんなことは。誰かに連絡を取ろうと思ったが、恵莉の親しい人間の連絡先を知らなかった。義両親に連絡を取るのも気が引ける。
どこに行ったのだろう。今までも家を出ていった時、どこでどう過ごしていたのかしっかりと聞いたことはなかった。一人でどこかで過ごしているのだろうか。友達のところだろうか。……もしかしたら男友達かもしれない。最近コソコソとスマートフォンを操作しているのは知っている。
ダイニングテーブルで頭を抱え込んでいるうちに睡魔が襲ったようだった。午前3時までは時計を見ていたのを覚えている。
空が白んできている。カーテンの隅から薄明かりが漏れ出している。樹は思い切って外に出ることにした。道路に面した玄関先に足を延ばす。
道路の右手には橋がある。左手は住宅街のどん詰まり。どこかから帰ってくるとすると右手の橋の方だ。樹は橋の方を睨みつけながら待った。
本当は指摘したい。
誰と連絡を取っているの? 今日は誰と会うの? どうしてそんなに着飾っているの?
でも気づかないフリをしている。指摘したらすぐに破綻するだろう。
ごめんなさい、もうあなたとは一緒にいられない。
だから指摘しないでいる。樹はまだ恵莉のそばにいたいと思っている。抱きしめたいと思っている。
橋の向こうに人影が見えた。それがわかった瞬間に樹は走った。恵莉だった。
樹が前に駆け寄ると、恵莉は目を見開いて、そして次に申し訳無さそうな目を寄越した。
彼女を抱きしめた。
「樹……」
恵莉の手は迷いつつ明け方のまだ冷たい空気を掴み、体は樹のなすがままにした。
「よかった……。心配したんだよ」
樹は恵莉の肩口に顔をうずめたままつぶやいた。
「本当に、本当に心配したんだ……。帰ってこなかったらどうしようかと思った」
「……どこに行っていたか聞かないの」
返事の代わりに樹は恵莉に回した手に力を入れ直した。
「帰ろう」
彼女を放すと、手をとって引いた。顔をまともに正面から見られなかった。
恵莉は涙があふれる目頭を手の甲でぬぐった。
「そういうところが……」
まだ。
まだ破綻させたくない。
〈了〉
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