5.やがてその日は来る(かもしれない)

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5.やがてその日は来る(かもしれない)

ドール先輩の再校に修正をなんとか入れ終わった日。 手書きの文字が入った原稿を封筒に入れると、 自転車に乗って自粛ムードの街へ繰り出た。 自転車で10分ほどの場所にあるヤマトの配送所へ原稿を差し出しに行くためだ。 その道程――報われた、と思った。 20代の頃、テレビ業界でシナリオライターを目指していた僕は、公募コンクールの応募原稿を腐るほど書いては夜な夜な全速力で25分ほどかかる中央郵便局まで自転車を大爆走させていた。 もちろん締め切りギリギリまで原稿を書いていたためだ。 そしてこんな時に限ってプリンターは紙詰まりを起こし、原稿を閉じる紐は行方不明になり、さっきまで使っていたはずのパンチもなぜかソファの下に転がり込んでいたりする。 そんなわけで夜12時まで開いている中央郵便局の臨時窓口まで自転車爆走で出来たてほやほやの原稿を送りに行く羽目になるのだ。 夜12時に行けばさぞ空いているだろうと思うとあにはからんや。 夜の中央郵便局というのは案外、満員に近い。 窓口が一つだから人が並んでしまう、というのもあるのだろうけどガランとしていることなんて多分、一度もなかったと思う。 原稿が有効になるためには締め切り最終日の消印が必要だ。 日をまたぐ15分前に到着する、ということはこのデッド・リミットに間に合うか否かの瀬戸際であることを意味する。 列に並んでからがまた長い。どこかのOL?が大量のDMを差し出しに来ていたり、酔っぱらいみたいなおっさんが私書箱留めになっている謎の私物を受け取りに来たりしているのだ。 真冬にもかかわらず汗だくになって原稿の封筒を握りしめながら僕は遅々として進まない列に並んで、絶望的な気分になる。 そして俺はなんでこんなことをしているんだろう、という問いを自分自身に投げかけてしまう。 こんなことをして意味があるのか? 俺は気が狂ってるのか? ばかなのか? こんな紙束に大量の文字を印刷して、それを後生大事に抱えて簡易書留で760円くらいの高くもないが安くもない金をわざわざはたいて送りつけることになんの意味がある??? そんな自問自答の暗黒スパイラルに陥りながらも、なんとか消印が無事に押してもらえることを願い、「あれ?ハンコがね―な―」などとのたまってポケットを探ってるおっさんにイライラしてしまう。 あのイライラは、でももしかしたら自分に向けてのものだったのかもしれない。外にイライラを放つ人というのは大概、その実、自分にイライラしているのではないだろうか? 爆走の甲斐あって僕はほとんどいつも締め切り2,3分前に消印を押してもらうことが出来た。そして「やった。これで未来が開けるかもしれない」などと思って帰路をたどった。 同時に「いつまでこんなことを続けるのだろう」というそこはかとない恐怖と疑問をいだきながら。 たぶん、一度か二度ほど当日消印に間に合わなかったことがあったと思う。 そのときの、あの、どこかホッとした気持ち。 夢を抱いて、それを求めることは同時に茨の道を裸足で歩むことにもなる。 いつか、こんな言葉を聞いた。 「君の夢は?」という問いに「今日を楽しむこと」と答えた人がいた。 僕は衝撃を受けた。 そんな考えは僕の人生のなかで一度もなかった。 あこがれを抱きながら、それを真似することは難しかったように思う。 だから僕は自転車で夜の中央郵便局へ爆走するはめになった。 そんな馬鹿げた努力を放棄して何年もした頃に朗報が入った。 そして、またあの頃と同じようにギリギリのタイミングで自転車を走らせることになった。 でも――ようやく報われたと思った。 この一瞬のために、あの絶望的な気分が全て帳消しになった。 これでよかったと思えた。これ以外に道はなかったと。 奇跡の一手で真っ黒だった盤面が一挙に白くなったオセロのようだった。 今、僕は夢を見ることも忘れてはいないけれど、今日を楽しむことが少し出来るようになった気もする。 そしてあの頃よりも夢というものを全面的に信じることがなくなった。 それが不用だというつもりもないけど、今この瞬間の大事さが理解できるようになったためかもしれない。 夢を持ったほうがいいとは思わない。だからといって持たないほうがいいとも思わない。 誰かに評価されることに喜びがあることは確かだけれども、それは世界の半分でしかない。自分がただ満足できるならそれでいい、という考え方にも同じくらいの重みがあるはずだ。 そう思うようになった途端、評価されるようになったりもするので人生はわからないものだなと感じる。
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