320人が本棚に入れています
本棚に追加
蛋撻rhapsody(エピソード完結済)
(『僕澁』完結後の話です。
僕澁ストーリーの重大なネタバレがあります。未読のかた、ご注意をば)
1
振り返ってみれば、里中にとっても、色々と慌ただしい秋だった。
その多くは、大したことではなく雑事の舵取りにすぎなかったが。
しかし、その「おおもと」はといえば、実は結構な「大事」だったのだ。
「おおもと」の「大事」というのは、組事務所の奥の一室に、長く腰を据えていた秦久彦が、突如姿を消したことだった。
里中が代貸を務める砧興業。
その上に立つのは関東劉山会だ。
その会長の弟分であり、劉山会の「参与」でもある男。
それが秦久彦だった。
里中は、その頃。
「秦の大叔父」に頼まれ、同じく劉山会の二次団体である「銀寮会」の若頭、曾地原に探りをいれていたところだった。
だが――
事態は「急展開」したのだろう。
おそらく、秦の大叔父が「想定していた」よりも、ずっと早くに。
まあ、ありうることだ。
なんといっても、相手はあの「キチガイ犬」のソチバラだからな。
仔細は不明だったが、ついこの間、秦久彦の秘書をやっていた「若いの」が撃たれて死んだ。
名前はシライシ。
歳は、まだ三十にもならんだったろう。
いつも、カタギめいた紺スーツを真面目に着込んで、どうにもすました小僧っ子ではあったが。
しかし実のところ、里中はシライシのコトを、それなりには気に入っていた。
とにかく礼儀だけは正しいヤツで。
なにより仕事がビシッとしていた様子は、はたから見ていてもうかがえたからだ。
そのシライシの「死にざま」はといえば。
裏通りの雑居ビルで撃たれて捨て置かれ、出血多量だったとか聞いている。
まったく。
若い身空で気の毒なことだが、まあ。
畳の上でマトモな死に方なんてできやしない……というのがヤクザの習い性。
「この道」に入ったからには、仕方のないことと。
里中も、そう淡々と考えやるしかなかった。
その「騒動」というのが――
どうやら、会長の妾腹の三男坊を巻き込んだものだったらしいことは、界隈でも、本当にごくごく一部の人間しか知らないことのままだった。
そして、おそらくその場にいたのであろう秦久彦は、そのまま、まるっと姿を消したのだった。
突如、砧の事務所の一室に、宙ぶらりんに残された秦やシライシの私物。
ネット関係の様々な契約だなんだと、もろもろのことについては、雲隠れの前に、秦久彦が周到に段取ったらしく。
劉山会関係の弁護士らがきて、テキパキ処理していったから、里中としては、落穂ひろい的に、事務所がらみの片づけ物を仕切ってやったり、作業に来る連中に茶やビールを振舞ってやればいいだけだった。
だがしかし。
そうはいっても、なにやら「気持ち」の方が落ち着かない。
なにせ秦久彦は、かれこれ十年近く砧の事務所の庇を借りていたのだ。
そんな男の突然の失踪となれば。
それが里中の心を、多少なりともザワめかせるのも、どうにも無理からぬことだった。
そうこうするうち、秦の部屋の片付けも、ほぼ終わったようで。
その日は、最後の最後に残った雑品が運び出されていた。
折を見て、里中は部屋の中を覗いてみる。
ひょいと置かれたコーヒーカップに目が留まった。
ひとつは、秦久彦のモノ。
萩焼かなんかの、渋い品だ。
使い込まれた感じが何とも言えない。
もうひとつは、飾りっけのない真っ白なカップとソーサーだった。
えらく素っ気ないような、すこし角々とした形をしている。
ああ、死んだ兄ちゃんが使ってたんだろうなと、里中はあたりをつける。
そして、作業を仕切る弁護士事務所の人間に、「おう、お疲れさん」と声を掛けると、
「このカップな、俺が貰ってもいいかい?」と尋ねた。
*
最初のコメントを投稿しよう!