蛋撻rhapsody(エピソード完結済)

1/18
前へ
/56ページ
次へ

蛋撻rhapsody(エピソード完結済)

(『僕澁』完結後の話です。 僕澁ストーリーの重大なネタバレがあります。未読のかた、ご注意をば) 1    振り返ってみれば、里中にとっても、色々と慌ただしい秋だった。  その多くは、大したことではなく雑事の舵取りにすぎなかったが。  しかし、その「おおもと」はといえば、実は結構な「大事(オオゴト)」だったのだ。  「おおもと」の「大事」というのは、組事務所の奥の一室に、長く腰を据えていた秦久彦が、突如姿を消したことだった。  里中が代貸を務める砧興業。  その上に立つのは関東劉山会だ。  その会長の弟分であり、劉山会の「参与(アドバイザー)」でもある男。  それが秦久彦だった。  里中は、その頃。  「秦の大叔父」に頼まれ、同じく劉山会の二次団体である「銀寮会」の若頭、曾地原に探りをいれていたところだった。  だが――  事態は「急展開」したのだろう。  おそらく、秦の大叔父が「想定していた」よりも、ずっと早くに。  まあ、ありうることだ。  なんといっても、相手はあの「キチガイ犬」のソチバラだからな。  仔細は不明だったが、ついこの間、秦久彦の秘書をやっていた「若いの」が撃たれて死んだ。  名前はシライシ。  歳は、まだ三十にもならんだったろう。  いつも、カタギめいた紺スーツを真面目に着込んで、どうにもすました小僧っ子ではあったが。  しかし実のところ、里中はシライシのコトを、それなりには気に入っていた。    とにかく礼儀だけは正しいヤツで。  なにより仕事がビシッとしていた様子は、はたから見ていてもうかがえたからだ。  そのシライシの「死にざま」はといえば。  裏通りの雑居ビルで撃たれて捨て置かれ、出血多量だったとか聞いている。  まったく。  若い身空で気の毒なことだが、まあ。  畳の上でマトモな死に方なんてできやしない……というのがヤクザの習い性。  「この道」に入ったからには、仕方のないことと。  里中も、そう淡々と考えやるしかなかった。  その「騒動」というのが――  どうやら、会長の妾腹の三男坊を巻き込んだものだったらしいことは、界隈でも、本当にごくごく一部の人間しか知らないことのままだった。  そして、おそらくその場にいたのであろう秦久彦は、そのまま、まるっと姿を消したのだった。    突如、砧の事務所の一室に、宙ぶらりんに残された秦やシライシの私物。  ネット関係の様々な契約だなんだと、もろもろのことについては、雲隠れの前に、秦久彦が周到に段取ったらしく。  劉山会関係の弁護士らがきて、テキパキ処理していったから、里中としては、落穂ひろい的に、事務所がらみの片づけ物を仕切ってやったり、作業に来る連中に茶やビールを振舞ってやればいいだけだった。    だがしかし。  そうはいっても、なにやら「気持ち」の方が落ち着かない。  なにせ秦久彦は、かれこれ十年近く砧の事務所(ここ)の庇を借りていたのだ。  そんな男の突然の失踪となれば。  それが里中の心を、多少なりともザワめかせるのも、どうにも無理からぬことだった。  そうこうするうち、秦の部屋の片付けも、ほぼ終わったようで。  その日は、最後の最後に残った雑品が運び出されていた。  折を見て、里中は部屋の中を覗いてみる。  ひょいと置かれたコーヒーカップに目が留まった。  ひとつは、秦久彦のモノ。  萩焼かなんかの、渋い品だ。  使い込まれた感じが何とも言えない。  もうひとつは、飾りっけのない真っ白なカップとソーサーだった。  えらく素っ気ないような、すこし角々とした形をしている。  ああ、死んだ兄ちゃんが使ってたんだろうなと、里中はあたりをつける。  そして、作業を仕切る弁護士事務所の人間に、「おう、お疲れさん」と声を掛けると、 「このカップな、俺が貰ってもいいかい?」と尋ねた。   *
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!

320人が本棚に入れています
本棚に追加