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埋單, please!
おそらく本編未読でも大丈夫だとはおもいますが。
さて1話目は、本編未読のかたへの【前説】です
僕澁 pt.48-2直後のこと……
登場人物的には、pt.47-2以後48-3くらいまで目を通していただけると、よりわかりやすいかも
本編『僕と澁澤のこと』https://estar.jp/novels/24202351
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1
里中は、夜の歩道に立ち尽くしていた。
その視線の先には、スルリとタクシーを捕まえて去っていく男の、見るからに仕立ての良い上着の背中がある。
ここは銀座の、とある通り。
里中は今しがた、その男と、すぐそこのビルの最上階で会食を終えたばかりだった。
いや。有り体に言ってしまえば、「会食」というより「ゴチになった」のだ。
丸抱えで高級中華をたらふく食べさせてもらった。
里中を広東料理で「接待」した男の名は、秦久彦。
その肩書は、関東劉山会会長の「参与」だ。
もっと言えば、劉山会の「黒幕」と呼ばれている男だった。
劉山会は、形の上では広域暴力団笠松組の「傘下」にあるとはいえ、自身が広域暴力団の規模を持つ指定団体だ。
来歴から見ても、決して笠松の「下」とばかりは言えない組織。
ヤクザの世界では「名門」と言っていい。
その劉山会の現会長と、どうにも浅からぬつながりのある男。
それが秦久彦だった。
里中は砧興業という組の代貸を務めている。
砧興業は、劉山会の二次団体。里中の「親」である組長の砧庄司は、劉山会の直参だ。
そして、くだんの「フィクサー秦」は、なぜか砧興業の事務所の奥に、庇を借りるようにして自らの机を置いていた。
その秦が、今朝がた突然、里中を食事に誘ったのだ。
「今晩、中華でもどうだ?」と。
里中は、直接には、秦と何の「盃」も交わしていない。
だが、自身の大親分である劉山会会長と秦は、相当に近しかった。
だから里中は、秦に対しては「大叔父」という尊称で呼びかけるのが常だった。
そんな相手からの「お誘い」だ。
もちろん、拒むなどありえはしなかった。
第一、秦久彦は「劉山会のフィクサー」というだけでなく、超級の「グルメ」としても有名なのだ。
さらに里中自身、若い時分に「ちょっとした行きがかり」があり、それなりに秦との縁もなくはなかったから、秦の「食いしん坊」ぶりは良く知っていた。
「そんな男」と食事となれば。
どんな店だろうと、まずもって涎が溢れるではないか。
里中の予想にたがわず、晩餐は豪勢極まりなかった。
酔っ払いエビにキジハタの清蒸。
特製の焼豚も堪えられない味だった。
加えて、老酒は最上級品ときた。
里中にとっても、これほどの美食は久方ぶりのことだった。
だが里中は、秦久彦が単なる「気まぐれ」で、人を食事に誘うような男でないこともまた、知らないワケではない――
そしてそっちの方も、里中の予想どおりだった。
中華の個室で、秦は里中に、ちょっとした「頼み事」を持ち掛けてきたのだった。
もとより、里中は秦を憎からず思っていたし、「頼み事」など、豪華な料理をふるまわれなくとも二つ返事で受けるつもりだった。
秦の大叔父だって、それくらいは分かってるだろうに――
とは思いつつも、一方で、里中は秦の「義理堅さ」を理解しないでもない。
自らの「子」でもない男に「頼み事」をするからには、それなりの「礼」を欠かすワケにはいかない――なんてのは、いかにも「極道の筋の通し方」で。
それは、ひどく秦久彦らしいことだと、里中は心のうちで微笑みを禁じ得なかった。
そんな「義理堅さ」の総仕上げのように、別れ際の今しがた。
秦は、里中にホテルのカードキーを渡してきた。
――部屋取ってあるから、「ゆっくりしていけ」と。
「メシ」の後は「女」とは。
至れり尽くせりにもほどがある。
さすがに、「それはご遠慮申し上げよう」とした里中を、秦は、やたらと「人好き」のする、けれどもザラリと乾いて凄みを孕む微笑で黙らせた。
それ以上は固辞もできずに佇むしかない里中を置き、秦はさっさと歩き出した。
だが、すぐに踵を返して戻ってくると、秦は、ダメ押しのようにして「バイアグラ」のフィルム剤を里中の手に握らせたのだった。
そんなこんなで、里中は今――
胸ポケットにはホテルのカードキーを突っ込まれ、手には勃起薬を握らされて、タクシーに乗り込んでいく秦の背を、呆然と見送っていたのだった。
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