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8
「こんこんと眠る」とは、まさしく、このこったな……。
目を覚ました里中が、まず覚えたのは、そんな感慨だった。
それも、自分が眠っていたのが「家のベッド」ではないと気づくより前にだ。
「どこだよ、ここは」と、身体をおこせば、上半身はぐしゃぐしゃのシャツ。
尻や腿に直に触れているのは、シーツの感触――
同じベッドの上、すぐ傍で男の呻き声がした。
「嗯……いま、何時ですか、里中さん」
目じりと口もとに、うっすらとした皺を見せながらも、やけに艶と張りのある美肌をした中年男が、瞼を閉じたままそう言った。
薄いカーテンを突き抜けてくる陽ざしのもと、あらためて見やれば、その男の顔の輪郭は、やはり端正といって差し支えないものだった。
訊ねられるがままに、里中は左手首に視線を向ける。
金無垢の派手なロレックスの文字盤は、カリカリに乾いた精液で汚れてはいたが、何とか時刻は読み取れた。
くわえて言えば、里中の手も股ぐらも、ガサガサのガピガピだった。
シーツを跳ねのけ、李がのそりと上半身を起こす。
「哎呀、もうランチタイムが終わります。酒家、行かないと……」
そう言って立ち上がった李が、一糸まとわぬ丸裸だったのには、里中も壮年ヤクザらしからぬ衝撃を受けてうろたえた。
だが、そんな里中を置き去りに、李はバスルームへと入り、盛大にシャワーを浴び始めた。
昨日。
昨日は――
里中の頭の中で、記憶がフラッシュバックする。
やたら美味かった晩飯は、むしろもう、どこか靄にかかったように遠く。
「たまのことだ、ゆっくりしていけや」
そう言って秦久彦が、ポンポンと二回、里中の肩を叩いた。
その重みと掌のぬくもりが、ありありと蘇り。
ホテルで飲み干したシャンパンのぬるさ。
そして――
「うわぁぁ……」
里中のくちびるからひと声、ごく低く鈍い悲鳴が洩れた。
「里中さん、ひとりでなに言ってますか?」
頭を拭きながら部屋に戻ってきた李が、小首をかしげる。
腰にバスタオル一枚巻くでもなく、全裸のままで。
李は、棚に置かれている小瓶を手に取った。そのパッケージには、ハエのようにも見える蜂の絵が描かれている。
蓋を開け、乳白色をした中身をひとすくい指先でこそげ取ると、李は両掌で丹念に擦って溶かし、顔や首筋、手足に塗り伸ばしていった。
ああ、「蜜蝋」……。
ふと、そう思いついたのはなぜなのか。
里中はすぐに気づく。
――ミツロウです。
「滑りよくなります。肌も保護します」
李が言った。
里中の後孔に、何かを塗りこめながら……。
里中の視線を感じた李が、ふと振り返る。
「コレ、肌にいいです、昨日も言いましたけど」
李は、小瓶の蓋を閉めると、それを棚の上にそっと戻した。
そして、クローゼットの戸を開き、シャツや下着を取り出して身支度にかかる。
そんな奇妙な静けさのなか、ぐきゅきゅきゅきゅ……と、部屋に響き渡ったのは、里中の腹の虫の鳴く音だった。
「里中さん、お腹空いてますか。可哀想ですね」
李が、スラックスのループにベルトを通しながら言う。
「昨日は、いっぱい『ハンサップ』しましたからね」
いや、まあ。
咸湿ってったって、馬鹿みたいにマス掻いてただけだしな。
っていうか、その前に――
パチンと、里中の内で、また記憶が弾ける。
後孔に侵入してくる、李の指。
その蠢き。
抜き差しされる、あの「いやらしい」音――
自らの頬のてっぺんが熱くなるのを感じ、里中はますます、どうしようもなく狼狽する。
「唉……わたしもお腹空きましたよ。でも時間ない。酒家で『賄い』食べます」
李がスタスタと部屋を出て行った。
そこで里中もやっと、自分も起き上がり身支度をすべきだと思い至る。
「おい、李さん……ちょくら風呂貸してくれ」
「好、もちろん」
言いながら、李が戻ってくる。
両手には、ごくごく小さな容器をひとつずつ持って。
そして、その片方を里中へと差し出した。
「昨日は元気いっぱい使いました。今、時間足りない。食飯できませんから、とりあえず」
「なんじゃ、こりゃ」
受け取りながら呟いて、里中は、その小瓶に視線を落とす。
「……ああ」
うっすら見覚えがある。
香港に居た頃、よくテレビの宣伝かなんかで目にした。
ガリ勉中の小学生くらいのガキに母親が飲ませたり、産後の母親に家族がさし入れたりだのと……。
たしか、栄養剤かなんか。
――CMの映像だけでも、もう、見るからにマズそうだったよな。
李が早速に、密閉された蓋をキュポンと開け、ヤクルトよりもちょっと大きいくらいのガラス瓶の中身を一気に飲み干した。
そうなると、「オレはいい、要らんよ」と小瓶を返そうとした里中も、さすがにそうは言いにくく、仕方なく蓋を開ける。
中身は、茶紫色のドロッとした液体で、どうにもゲロマズなルックスでしかない。
「日本のドリンク剤みたいなの。ダメ、全然効かないですね」
軽く肩をすくめ、李が言う。
「あれ、水と同じ。薄いです。ヤッパリ鶏精が効きます」
そうそう、コイツは「鶏精」っていうんだっけな――
「でもコレ。日本には売ってませんね。なぜですか」
そりゃ、見るからにマズそう過ぎて売れねえンだろうよ……。
と、心の中で李にツッコミをいれながら、里中は一気に小瓶の中身を呷った。
直後、「うっ…まず」と呻く。
そんな里中を見て、李がちいさく笑った。
そして、ふと視線をそらし、「……sorry呀」と呟く。
ごく小さな声だったが、その声は里中にもハッキリと聞き取れた。
李へ言葉を返そうと、引き結んでいたくちびるを開きかけ、けれども何も思いつかぬまま、里中はゆっくり、またくちびるを閉じる。
「じゃ、わたし仕事行きます」
李が踵を返した。
「あ、おい、李さんよ。オレはここ、どうすりゃいいんだ」
里中が訊ねれば、李が振り返りざま、ポケットから鍵を取り出す。
「これで玄関閉めて、一階の郵便受けに入れてください」
ごく淡々とそう言われ、里中がクシャリと苦笑いをした。
「不用心なこったな。ヤクザに家の鍵、預けようなんざ」
すると李が、涼しく笑んで小首をかしげる。
「里中さん、ヤクザだけど悪いヒトじゃないでしょう。何も盗ったりしない」
「ま、盗みたいようなモン、なんもねぇけどな、この部屋にゃ」
見たとこ、ボロっこいセコハンの家具ばっかだし――
「哈哈哈哈哈哈……」と、李が笑った。
「そうですね、わたし、お金は全部、銀行預けてあります。貴金属も貸金庫。大丈夫」
そして、「それじゃ、さよなら。里中さん」と告げ、李はスタスタと玄関から出て行った。
「sorry呀!」 劇終
(そして………)
その日――
里中が砧興業の事務所に姿をあらわしたのは、午後遅く、もう夕方も近い時間だった。
「今日はまた、エラく重役出勤だな? 里中の」
奥の自室からわざわざ出てくると、秦久彦はこう言ってニマニマと笑った。
そうなれば、里中としても「すいません……大叔父」と口ごもるしかない。
「謝るこたねえだろうよ。里中の。第一、お前さんだって天下の砧興業の『重役』なんだしな。ただ、いつも朝から、事務所にどっかりと腰据えてるお前さんにしちゃ、ちょっと珍しいこったと思ったまででな?」
そして秦が、ガシリと里中の肩を抱く。
「で? どうだった、昨夜の女」
「大叔父……」
「結構、タイプだったんじゃねえのか? あれでも苦労して選んだんだぜ。まったく、大層スッキリした顔してきやがって。なぁ?」
そうやって、上機嫌に詰め寄られれば、里中とて「はい」と応ずるしかない。
「……めちゃくちゃ『タイプ』な玉でした」
「だろう?」と得意げに頷いて、秦が続けた。
「組んだ脚なんか、こう堪らない感じで。しかし里中。お前、また随分とゆっくり楽しんだもんだな? 『アレ』が効いたか」
ギクリとした内心を、のらりくらりとしたオッサンの表情の下に必死におし隠し、里中はただ、短く笑う。
秦が言う「アレ」が。
勃起薬のODフィルムだということは分かっていた。
分かってはいたのだが――
勃起は「アレ」のおかげではなくて。
その……。
なんというか。
かんというか……。
なんと言おうに。
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