食飯未呀?

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2  時刻は夕刻に近い午後。  砧興業の自席に戻り、里中は窓を見やる。  三下(若いの)が煎茶を運んできた。  「おう」と、短く頷いてやり、里中は分厚い茶碗にくちびるをつける。  ――茶を啜り、机の上の雑件を眺め、そして窓の外を見る。  しばらくそんな風にしていた里中だったが、ついにスマートフォンを手に取った。  そして、グルメサイトで「ある店名」を検索し、電話番号をタップする。  「翠園酒家(ジェイドガーデンレストラン)でございます」と、男の声が応じた。 「ああ、(わり)ィな、ちょっと訊きたいことがあンだが」  そこはかとなく、ためらい淀みつつ里中が言う。 「その……支配人はいるかい」 「は?」  想定外、とでもいうように、里中の電話相手はごく短く発した。  だがすぐに、慇懃な声に戻り、 「ええっと、(リー)でございますか?」と続けた。 「そうだ……李さんいるかい」 「申し訳ございません、本日は不在でして」  不在―― 「あれか、休みかなんかか」 「さようでございます」と応じ、電話相手は少しの間の後、 「私、サブマネージャーの高橋と申します。ご予約でいらっしゃいますか? よろしければ私の方で承りますが」  などと話し始める。里中は慌てて、 「いや、そうじゃねぇんだ。またにする、悪かったな」とだけ言い、通話を切った。  里中はひとつ溜息をつき、湯飲みを手にする。  だが、もう中身が空であることに気づき、そのまま机に戻した。  そして、おもむろに立ち上がる。   「兄貴、またお出かけですかい」  エレベーターへと歩いていく里中の背に、三十代の弟分が声を掛けた。 「おう、オレは今日は『早仕舞い』だ。あと頼む」    肩越しに顔だけ振り返ってそう言い置くと、里中は事務所を出て行った。  ビルを出てすぐに、空車が通りかかる。  すかさず、それを捕まえて乗り込んだ里中は、運転手に京浜運河沿いの住所を告げていた。  *  まだ日のあるうち、あらためて見てみれば、その建物は、なかなかの「さびれっぷり」だった。  築年数としては、実はさほどでもないのだろう。  建物自体がひどく老朽化しているということでもない。  ただ陰り始めた日差しの中、それはまさしく「シャビ―」としかいいようのないムードを醸し出している。  まあ、運河沿いなんていうのは、そもそもが「うら寂しい」ような場所でもあるしな……。  なんて感慨を抱きながら、里中は運転手に紙幣を手渡した。  律儀にも百円ほどの釣銭を返してきたドライバーに、 「手袋代の足しにでもしてくんな」と、これまた古風なひと言を残し、里中は車を降りる。  オートロックも何もない玄関ホールに入ると、里中は、 「八階だったか」と、呟いてエレベーターに乗り込む。  「(バー)」は、アッチ(ホンコン)でも「めでたい」数字らしい。  金持ちの高級車のナンバーは、大抵「八並び」だ。  「大金持ちは縁起を担ぐのが好き」というのは、古今東西のことわりだが、くわえて向こうじゃ好きなナンバーを金で買える。   日本じゃ「八」は「末広がり」で縁起がいい。  広東語では「(ファー)」と音が似ているからだと聞いたことがあった。  なにせ新年の挨拶が「恭喜(金持ちになり)発財(ますように)」だからな……。  李が「縁起かつぎ」で八階に住んでいるのか、たんにタマタマなのか。  そんなことをツラツラと考えているうちに、八階に着いた。  エレベーターを降りて里中は、廊下をどん詰まりまで歩いていく。  目当ての部屋の前にたどり着いた。  オイオイ、なにやってんだ? オレは。  つい、勢いで来ちまったが――  ふと、里中の頭が少し冷えた。  呼び鈴も押せぬまま、里中はしばし、ドアの前に佇む。  するといきなり、目の前の扉が開いた。  部屋から出てきたのは、女だった。  里中と女は、一瞬面食らったが、すぐに互いを上手く避け合う。  その女の年齢は微妙なところ。  そう若くもなさそうな、しかし、何とも言えないムードがある女だった。  しかも、スタイルはスラリと抜群だ。  女は、そのまま歩み去っていった。 「(おや)? 里中さんじゃないですか」と、部屋の中から声。 「……どうしました?」  玄関ドアのノブを掴んだまま、李が軽く首をかしげる。  白いワイシャツをはおり、ややくたびれたブルージーンズを穿いただけの恰好。  その裾からは、裸の足がのぞいていた。  その足の甲に目を留めて、里中は、  「やっぱり肌のキレイな男だな……」と、思わず益体もないことを考える。 「店に……電話したら、今日は休みだって聞いてな」    里中が口にしたのは、よく考えたら、答えになっているのだかいないのだか分からないようなことだった。  李が少しの間、黙る。  そして、ドアを押し開けると、 「まあ、どうぞ」と、色のない声で言った。  口先だけでも、今日は「熱烈歓迎」じゃないんだな……などと。  里中は、どうにもいたたまれない気持ちを覚えてしまう。  だがここまで来たのだ、玄関先に突っ立っていても仕方がない。  そう気持ちを決めて、里中は、ずいと部屋の中へ入った。  
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