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里中のマンションから組の事務所までは、地下鉄で二駅ほどだ。
毎朝、里中は電車で事務所に向かうのが日課だった。
その日は、いつもよりも少し遅い「出勤」だったから、駅の通路に出展されているイベント店舗が、もう商売を開始する時間になっていた。
やけに香ばしい匂いが充満している。
「焼き立てパン」というよりは、もっと何か「甘ったるい」香りだ。
ケーキかなんかか?
しかし、ケーキってのは、こんな風な匂いはしねぇよな?
そう、これは何かの「焼き立て」の匂いだ――
めったにないことではあるが、好奇心を刺激されて、里中は客が並び始めたブースをひょいと覗いてみた。
「安德尼餅店」と、やけに漢字だらけの店の名前に目が留まる。
ショーケースを見れば、ズラリと並んでいるのは、薄茶のパイ生地に包まれた、ごく小さな丸い物体だった。
カスタードクリームめいた黄色い部分には、かなり強い焦げ目がついている。
「ああ、コイツは……」
なんていったか。そう。
「エッグタルトっていったか」
昔、香港でよく、飲茶のシメに喰った、アレ。
だが、アレとはなんか少し様子が違うな。
「こんな香ばしい匂いがしてたっけか?」
首を傾げた刹那、ふと、里中の肘が店先にいた男にぶつかってしまう。
「おっと、すまねぇな、兄ちゃん」と、口当たりは良いが、決して「舐められる」ことのない極道者の凄みが滲む声で、里中は詫びた。
すると、男が「唖……」と、微妙なトーンの声を上げる。
「里中さん? 里中さんじゃないですか、嘩、ビックリ、偶然ですね」
見ればそれは、銀座の高級酒家の支配人、李だった。
「里中さんも、これ、買いますか」
言って李が、ショーケースを親指の先で示す。
「いや、オレは別に……」
「買ったらいいですよ。東京に店があるの、ちょっとメズラシイ。おいしいですよ」
そうまで言われれば、里中もチラと、その気になる。
朝食がまだだったから、多少、空腹だったのかもしれない。
「じゃ、あれだ。李さんよ、俺の分もいくつか買っといてくれや」
言いながら、里中は千円札を二枚ほど札入れから抜いて差し出した。
だが、李はサラリと視線をそらして、店員に注文を始める。
そんな李の振舞いに、里中も、一瞬肩をすくめはしたものの、他の客の邪魔にならぬよう、まずはその場から少し後ずさった。
そして、買い物を終えた李が里中のもとに歩み寄ってくる。
手にしているのは、大きめの箱の入った紙袋と、ごく小さな紙袋。
李が小さい方を、里中へと差し出した。
「いくらだった?」と里中が問えば、李はゆっくりとかぶりを振る。
里中とて、野暮なヤクザではない。
「すまんな、ありがとさんよ」と礼を言って、黙ってそれを受け取った。
続けて、「李さん、今日は酒家、休みなのかい」と問えば、
「夜から行きます」と答えが返ってくる。
そして里中は、李の手にした大きな袋へと改めて視線を向けた。
「アンタ一人で、そんなに食うのか?」
「冇、これはお土産です」
「『みやげ』?」
「係呀、これから小姐に会いに行きますから」
「へえ、そうかい」
「哦、里中さんも会ったことありますね。この前、うちに来た時」
この前……?
ああ、そういえば戸口ですれ違った。
ちょっとムードのある女。
結構な年増とは見たが、なかなか、スタイル抜群の美人だった。
「里中さん、玲姐姐のコト、ちょっと咸湿な目で見てましたね」
「いや、別に…見てねぇって」
「そうでしょうか」
「そうでしょうとも」
おっと、つられて変な日本語になっちまったじゃねえか。
そこでふと思いつき、里中が李に尋ねた。
「ところで、李さんよ。コイツはあれか。よく飲茶なんかで出てくる、あのエッグタルトだよな?」
「哦、それはそうなんですけど。點心のとは違います。これはポルトガル風の蛋撻ですね」
「ポルトガル?」
「そう、マカオの有名なパン屋の蛋撻ですから、香港のとはちょっと違います」
「ほぉ……」
分かったような分からないような相槌を打つ里中に、李は、
「それじゃ、里中さん。サヨナラ」と素っ気なく言い置いて、サラリと人波に紛れていった。
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