316人が本棚に入れています
本棚に追加
/56ページ
8
き、す……だと?
李の言葉を、脳内で反芻しながらも。
里中は、ただポカンと、その意味を掴みかねて瞬いた。
血が滲み、腫れて膨らんだ李のくちびるだけが、今、里中の目に映っていて。
このくちびるに、キス――
なんの脈絡もなく、前提もなくポンと投げ込まれた仮定を。
それでももう一度、頭の中で繰り返せば、里中の口腔に、じゅわりと唾液が溢れた。
くちびるに触れる互いの肉のやわらかさや、絡みつく舌の感触。
なにひとつ、知りもしないのに。知っているワケもないのに。
そんな事々が、ワッと口内に蘇るようで。
そして里中は、上体を李の上へと傾けていく。
気づけば、頬に顎に、互いの息遣いを感じるほど、ふたりの顔は近づいていた。
そんな至近距離であらためて見やれば、まだらに痣が広がってはいるものの、李の肌は驚くほどに美しかった。
李の、かすかな血の匂いをかぎ取って、里中は舌上にキスの味を想像してしまう。
錆じみた苦味と、メビウスの煙の焦げっぽい味――
だが、次の瞬間。
「アヂっ……!!」と叫んで、里中が飛び退った。
手にしていたタバコが、ちょうどフィルターまで燃え尽きていた。
指先を、思いっきり熱気に焙られた里中は、タバコを放って、
「痛ぇな、ったく」と、苛立ち半分、ボヤキ半分に吐き捨てる。
李が、クスクスと笑い出した。
そして上体を軽く起こして、手にしていた氷の袋を、今一度、顎先と頬に当て直す。
「お姉さんが、商売はじめました」
ポツリと、ごく唐突に李が洩らした。
「あのあたりで……ちいさい店です」
「そうかい」と、里中はごく当たり障りのない相槌を返す。
だがそれは、声音と口調と、そして里中独特の佇まいとが相まって、誰の話をも自然と引き出してしまう魔法の言葉だった。
「黒社会の……ええっと『チンピラ』? どの国でも『みかじめ』欲しがります」
そこで一旦、話を区切ると、李はチラリと里中を見やり、
「まあ、それは、しょうがないですが……」と溜息交じりに洩らす。
「お姉さんも払ってます。でも最近、別の『組』も来るようになりました」
「ああ……『二重取り』にあってんのか」
里中が、低く呟いた。
「そう、玲姐姐の商売、そんなに大きくないですから、二か所も払えませんね。それで相談されました」
……玲姐姐? 聞いた名前だな。
ああ、今朝言ってた。
李さんのマンションですれ違った、あの年増美女のことか。
ってか、「お姉さん」って、なんだよ。
あの女、ホントに李さんの「家族」なのか……?
などと、色々疑問がわかないでもなかったが、とりあえず里中は、
「なるほど、それで?」と、李の話の先を促すことにした。
最初のコメントを投稿しよう!