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タクシーが止まったのは、海辺の四角い建物の前。
雑居ビルめいたそれは、かなり古めのマンションだった。
銀座まで、タクシーに乗れないほどの距離じゃないが、家賃はおそらく、そこまでじゃないだろう。
京浜運河沿いには、こんなのもまだ、チラホラと残っていやがるよな――
李が、千円札を一枚、里中に押し付け、さっさと先にタクシーを降りていった。
もちろん「ワリカン」には、微妙に足りないことは言うまでもない。
オートロックも何もない、古びた玄関ホールを突っ切っていく李の背を、里中はまたしても憮然とした顔で追いかける。
旧式のエレベーターは狭く、李と里中、オッサンふたりが乗り込めば、やや窮屈だった。
李が、八階のボタンを押す。
「……李さんよ、ここがアンタの家なのか」
間が持たず、なんとはなしに里中が訊いた。
「そうですよ」と、李が応じたところで、エレベーターが止まる。
そして、そこはかとなく寂れ気味の外廊下の突き当り。
李の部屋は、建物の一番奥だった。
「歓迎歓迎、どうぞどうぞ、いらっしゃいませ」
少なくとも言葉の上だけは「熱烈歓迎」といった台詞を口にして、李は玄関を開けて里中を招き入れる。
李が、昭和中期風の黒く小さな壁のスイッチを入れれば、キンキン……と、小さな音がして天井の蛍光灯が灯った。
新しくも豪華でもない部屋だが、広さだけはそれなりにある。
古いサッシの掃き出し窓に掛かったカーテンは、「煮しめたみたいに汚れて」とまではいかないが、どことなく煤け、薄汚れていた。
今にも枯れそうなポトスの鉢植え。
田舎の役所なんかにありそうな、野暮ったい黒の合皮の三人掛けソファー。
テレビ台にしてあるのは、スチール製のロッカーのようだ。
どれもこれも、中古品だろう。しかも、おそらくはタダで集めてきたに違いない。
まあ、これはこれで、そこはかとなく「洒落てる」っていや、言えねえこともねぇのか?
などと、そんなことをツラツラ考えながら、部屋の真ん中に突っ立っている里中に、李が、
「里中さん、座って座って。ほら」
と、ソファーを指し示す。
「うーん、ワタシ、少し飲みすぎたかもしれません。お茶飲みましょうか、お茶」
言って李は、ペタペタと奥の台所へと入っていくから、里中も手持ち無沙汰にソファーに腰を下ろすしかない。
じきに李が、蓋つきのマグカップをふたつ、両手に持って戻ってきた。
それぞれに、中国茶のティーバックが放り込んである。
「水仙、好きですか?」と、李は里中にカップを手渡した。
「水仙」というのは、茶の種類のことだ。
たしか、濃いめの烏龍茶みたいなヤツだな……と、里中は記憶を手繰り寄せる。
そして、ヤクザの代貸と雇われ支配人の中年二人は、しばし無言で茶を啜る。
「李さん。アンタ、出身は?」
「香港です」
「やっぱな」
「里中さんは、香港、いたことありますか」
「少々」
「あー、やっぱり」
などと、まさしく「茶飲み話」以外の何物でもない会話をポツポツと交わすが、夜も夜中にオッサン二人が、それほど盛り上がるワケもない。
先にシビレを切らしたのは里中だった。
「で。なんか言ってたよな、李さん。その、なんだ。『方法』がどうのこうのとか」
「ああ、方法……係」
何故なのか、どことなくおざなりに、李が応じる。
「うーん」
なぜだか李が、ふと言い淀んだ。
「里中さん、やっぱり教えてほしいですか?」
おい、「家に来い」って言い出したのはお前の方だろう?
むしろ、教える気満々だったろうが。
「分かりました。なら、教えてあげます」
いやいやいやいや。
今になって、何を勿体ぶってやがるんだ。コイツは。
「じゃ、シャワー。使ってきてください」
「あぁン?」
――「シャワー」だと?
「里中さん、ホテルで浴びてるの分かります。でも後ろ、キレイにしてありますか? してなかったら、洗ってください」
――うしろ?
「ユニットバスだから、トイレの方、使ってくださいね」
ここにきてやっと、里中にも状況が呑み込めた。
考えたくもないような「状況」が――
「おい、まさか」
「マッサージします、マッサージ」
――いわゆる前立腺マッサージってヤツかよ!!
「いや、待て。そういう話だったらオレは」
「ナニ、里中さん、信じてないね? アレはすごく効きます。どんなダメな『陽具』も元気取り戻す。ビンビンね。でも、コツがいる。最初はみな、あまり分からない」
「いや、あのな、信じる信じないとかじゃなく」
「マッサージはその場だけじゃないですね。キチンと続けると、カラダ変わります。ずっと元気が続くようになる」
李の言葉に、また、徐々に力が入り始めた。
「朝起きたとき、『元気元気』にもなりますよ」
そして李が、キュウっと眉根を寄せる。
「里中さん、たぶん、そういうの随分ない。違いますか」
――たしかに。
朝勃ちなんぞ、もはや「遠い昔の出来事」ではあるが。
「ね? 朝の元気、『トンとご無沙汰』でしょう?」と、李が追い討ちをかけてきた。
「角度も『グイン』! すごくなる」
何やら怪しい手振りつきで、李はひとり盛り上がった。
「あのな……李さんよ。アンタまさか、ホントはソッチ系」
「違う違う!!」
口をひん曲げ、李が声を張った。
「ワタシ、女好き。『モテモテ』だからお相手、たくさん過ぎるコトがありました。『元気」保つために工夫しました」
ったく、いちいち自慢入れてきやがンだよな、コイツ。
ま、いいけどな……。
そして李は、
「じゃ、里中さん、さっさと準備してくださいね」と、サクッと勝手に話を終えたのだった。
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