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S.S:作
『哀願』
10月の学園祭はハロウィンを兼ねる。
当日は朝から校内放送で音楽を流す決まりになっていて、放送部員のあたしと隆(たかし)は開門と同時に学校に入った。グラスウールと鉄の機材に囲まれた、淡い光量の放送室は、しん、と静まり返り、人里離れた神社を思わせる静謐さがあった。
グラスウールが音を吸い、鉄が熱を吸う。吐息が白い。
「早いとこ着替えよう」
仮装用の衣装を袋から取り出して隆にいうと、「ここで一緒にか?」と、あたしを真っ直ぐに見つめていった。
あたしはこの目が嫌いだ。落ち着き払った熟思の目。いけないよ、と諭している。そこに哀願が含まれるから、傷つく。
「誰も来ないからいいじゃない」
「誰か来たら困るだろう?」
困る? あたしは困らない。そう。あたしは隆を困らせたい。困らせて、この関係を確かめたくて試している。
付き合い始めて3ヶ月。キスもしていない。
あたしがブラウスのボタンを外し始めると隆は無言で下を向いた。隆が履く仮装用の黒いエナメルの靴に映る彼の顔が、左右に大きく歪んで見える。
「明美」
「なぁに? 早く着替えないと誰か来るよっ」
「鍵、しめるぞ」
「えっ」
ガチャリ、と内鍵を掛けたドアを背にして隆があたしを見つめた。この部屋には窓がない。この部屋の音は外には漏れない。沈黙が流れた。
あたしは急に息継ぎをしたくなって「ハッピーハロウィン…。トリック・オォア・トリート。良いものくれなきゃ……イタズラするぞ……」と、ボソリと呟いた。呂律が回っていない。
隆は両手をポケットに入れてあたしの前に来た。あたしより頭ひとつぶん背の高い隆に見下ろされる。その瞳は、怒るでもなく、困るでもなく。諭してもいなかった。でも哀願はあった。それが嬉しかった。
だから、自然に重なれた。
キスを離すまぎわに、にゅるんっ、と固いものを口の中に押しこまれたので驚いて手のひらに出すと、小さなアメ玉だった。
隆はハロウィンだしな。といって、にかりと笑った。
初めてのキスは、ソーダの味でした。
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