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 斯様に周囲の者達を蔑んで周囲に溶け込もうとせず、時折トラブルを起こすのに手前味噌ながら好男子であるが故に事務員の女性社員達から贔屓にされていた俺は、妬みの籠った男性社員らの不満を日に日に募らせて行くのだった。従って流石に工場長も呑気な処遇が出来なくなって来て或る日、或る男性社員とちょっとした諍いを起こした俺に対し、「これ以上トラブルを起こしたら首にする」と宣告したので、爾来、俺はS工業を首になったら後が無いと覚悟し、どんな不平不満も絶対、堪えて行く所存でいたのだが、皮肉な事に俺の強い道義心自尊心羞恥心に基づく理念が仇となり墓穴を掘る事になってしまった。  その理念を構築するのに役立ったものとして第一にニーチェの「高貴な者は人に恥ずかしい思いをさせないようにする。亦、すべて苦しみ悩む者を見ると自分自身が羞恥を感じるように努めなければいけない」というアフォリズムが挙げられ、第二にヴァレリーの「善を為す場合にはいつも詫びながらしなければならない。善程、他人を傷つけるものはないのだから」というアフォリズムが挙げられ、人に同情し、善を為す場合、余程のデリケートな神経を使わなければならないと悟るに至ったのだが、S工業の浅田という壮年の男性社員がこのデリケートな神経を全く持っておらず親切を買って出るような愚か者だったので俺は浅田を心底、軽蔑していたのに俺以外のS工業全員の間では浅田は良い人と相場が決まっていて人望を集めてしまうという、この相互関係が俺の破綻の元となった訳だ。  人に恥ずかしい思いをさせないようにするという理念ぐらいは分かるが、何で苦しみ悩む者を見ると自分自身が羞恥を感じるように努めなければいけないんだ?何で善を詫びながらしなければならないんだ?何で善が他人を傷つけるんだ?と疑問に思う俗人から見ると、浅田を軽蔑する俺の気持ちが分からないだろうが、お節介な程、親切を買って出る、これ程、傍若無人な振る舞いは無い。例えば人が失敗したとする。失敗した人は失敗した事で苦しみ悩む者となるので見られるだけで恥ずかしい思いをするのである。だから失敗した事を誰にも見られずに処理したいし、亦、処理出来るのである。そこへ浅田という男はしゃしゃり出て行って失敗した人の失敗した事を処理してしまうのだ。俺ならそんな事をしたら失敗した人の弱味を見る事になるから失敗した人が恥ずかしい思いをするであろうと気遣い、見て見ぬ振りをする。亦、失敗した人が処理に困っているのなら手助けに行き、その際、失敗した人、取りも直さず苦しみ悩む者を見て辱めた罪として羞恥を感じるように努める。それ程までに俺は人の弱味を見る事に罪を感じ、人の弱味を見ないように心掛けて生きているのだ。
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