曼殊沙華

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私の言葉を訊いた吉田さんは少し表情を和らげ、そして静かに語った。 「……わたしは生んだばかりの娘から逃げたんです」 「逃げた…?」 「わたしは元々人の世話をするのが好きだったから子育ても他のお母さんよりは手際よく出来ると思い込んでいたんです」 「……はい」 「だけどね、実際は違った。赤ちゃんを育てるというのは……大人相手に世話するそれとは全く違っていた。こちらの意思が通じないし、赤ちゃんの気持ちも全く分からない。どうして泣いているのか、こんなに世話をしているのにどうして一日中泣くのか……」 「……」 「完璧主義だったわたしは今まで挫折なんてしたことがなかった。だけど初めて味わった挫折が……育児だったの」 「……あの……それは」 「ごめんなさい、怖がらせるつもりで話しているんじゃないの。子育てには個人差があるし十人十色、色んな育児法がある。辛いことばかりではないわ。幸せな、嬉しいことだって沢山ある。これだけは分かって欲しいの」 「……はい」 吉田さんは私が抱いた不安を見抜いて先回りして言葉を付け加えた。 (そうよ、そういう話は体験談としてよくあることよ) そういう覚悟も含めて私はこのお腹の子を生んで慈しみたいと思っている。そう思いながらそっとお腹に手を当てた。 そして吉田さんは話を再開した。 「……娘が生後半年になった頃、わたしの疲労は限界に達しこのままでは娘を……娘に対してとんでもないことをしでかしそうなほど追い詰められていると悟った。わたしはそうならないようにある日突発的に娘を置いて家を出て行ってしまったの」 「……え」 「つまり育児放棄をした──ということ」 「……」 吉田さんの話は衝撃的だった。──というよりも (なんだか……この状況って)
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