tat.1-01

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「────はい?」  艶やかな笑顔がこちらを振り返って、俺の思考は中断した。  独り言が風に流れて届いていたらしい。 「どうかしましたか?」 「いや……」  何でもない、と、再び紳士の仮面で微笑む俺を少女は首を傾げて見つめていたが、やがて何かに思い至ったように立ち上がった。  背丈こそ小さいが、見た目……十五才前後といったところだろうか。  真っ赤なケープ(ケプヒェン)に、真っ白なレース(シュピッツェ)エプロン(シュルツェ)。細やかな(ひだ)がふんだんにあしらわれた生成(きな)りのスカート(ロック)には、濃淡のあるコスモス色の巻きスカート(ヴィッケル・ロック)が重ねられている。──よくある村娘の服装だが、森の中で見るとやはり相当派手だ。  少女は手籠(コルプ)を再び腕にかけて、花に足をとられそうになりながら俺の前へとやって来る。風に揺られて輝く金の髪の奥で、二つの空が微笑(わら)っていた。 (無防備にしやがって……)  手を伸ばせば容易に届く距離。今の俺には挑発的とも思える行動が小憎らしい── 「ここまでご親切に……私はクリスティーナ。──あなたは?」 「…………は?」  一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。 「? え……と、よかったら、名前……教えて、いただけませんか?」  俺は返事に窮した。  まさか、名前を()かれるとは思わなくて。  誰かに名乗り、名乗られる。そんな機会とは無縁の世界にいたから。  今置かれている状況を理解して──  心臓がひとつ、大きく音をたてたような気がした。 「……アレックス、だ」  もう、何年も口にしていなかった己の名前。  不自然に空いてしまった間を取り繕うように、なんとか笑顔で返したものの、声はわずかに上擦っていたかもしれない。  少女──クリスティーナは、俺が答えるとふいに笑みを消した。  声音に不審を抱いたのだろうか。そう思って見ていると、ぱっと視線を外される。  そのままわずかに目を泳がせたあと──そんなにも嬉しそうな顔をする出来事が、この世にあるのかと問いたくなるほどの……こぼれ落ちるような笑顔を俺に向けた。  頬が、咲き乱れる花の色を写して染まっている。 「アレックス……こんな素敵な場所に連れてきてくれて本当にありがとう」 「………………」  今度は……礼を言われた。 (待ってくれ……)  ────さっきから一体、何が起きている?  名前を()かれて?  礼を言われて?  ……この、俺が……?  ────風が舞い上がる。  ()の光にあたためられた風に甘く香る花園。  花びらが舞い、柔らかな綿毛が一斉にとびたっていく──  わぁっ……と声を上げて、少女は両手を空へと伸ばしくるくると回った。  どこまでも無邪気なその姿を  ただ呆然と見つめる  ああ 俺は  今日だけで一体  何年分の驚きを経験しているのだろうか ††††††††††††††††††††††
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