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「……さて、久々に『紳士』の登場といくか」
俺は尻のポケットから折りたたんだハンチング帽を取り出した。ふぅっと息を吹きかけ、軽く叩いて形を整える。そうして、眼を閉じた。
意識を集中する。
一瞬、己の輪郭が解けてあやふやになるような感覚があって、だがすぐに元に戻る。──これで、準備は終わりだ。
帽子を被りながら、ほくそ笑む。
俺に騙され餌食となる哀れな侵入者は、今日はどんな奴だろうか。
まあ、だいたい想像はつく。……この足音の軽さ。そいつがどれほど弱く、脆いか。
(女……いや、まだガキか)
後悔するがいい。弱者の分際で軽々しく足を踏み入れたことを。
(この森を侵すなら、何人たりとも容赦はしない)
パキ……ッと、もう一度、今度こそ間近で小枝を踏む音がして俺は目を開けた。
ゆっくりと振り返る視界を、深い森の色が流れていく。
俺が生きる、黒の世界。そして──行き着いたその先に待っていた色に。
俺の目は釘付けになった。
────赤────
歩いてきたのは、真っ赤なフード付きのケープに身を包んだ少女だった。
(な……んだ、こいつ……)
鮮やかすぎるその色。俺の目にはいっそ薄気味悪くすら映って、思わず一歩下がりそうになった。
『黒い森』にあって、それはあまりにも異質で。
────〝異質〟。
だが、ふと行き当たったその言葉を反芻して自嘲の笑みが漏れる。
それは、他ならぬ俺が骨身に染みるほど言われてきた言葉だった。……ならば逆に、この森の中で人里の者をそう思うのは当然なのかもしれない。
俺は気付かれないようにそっと息を吐くと、改めて彼女──ガキというほど幼くもないようだ──を見る。
青い空はまだ瞼の裏にはっきりと残っていて、それが一層その赤い色を際立たせた。
(……莫迦か……)
正直、呆れる。
森へ入るなら保護色を選ぶのが基本だろう。
動物たちの中には色を識別できる者も多い。不用意に刺激しないよう、俺ですら生成色の上下に長靴は焦げ茶、ベストもトウヒの葉と同じ色のものを選んでいるというのに……。
深く被ったフードの縁が、少女の瞳を隠していた。しかし俺の存在に気づいたか、息を詰める気配がしてぴたりとその足が止まる。
あからさまに伝わってくる緊張の波に、込み上げる笑いをどうにか呑み下す。──これだけ目立つ服を着ておいて、今更まわりを警戒するのか。
本当に愚かだ、女というのは。
いや、『人間』というのは、か。
俺は────『人狼』。
神聖な森を汚す者を粛清し、森の深淵の秩序を正す、『黒い森』の〝調整者〟。
(ここを侵すものは総て──俺の、モノだ)
「────こんにちは。お嬢さん」
俺はにっこりと笑顔を作った。
さあ…………狩のはじまりだ。
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