prolog【森】…Schwarzwald…

5/10
168人が本棚に入れています
本棚に追加
/185ページ
「……さて、久々に『紳士』の登場といくか」  俺は尻のポケットから折りたたんだハンチング帽を取り出した。ふぅっと息を吹きかけ、軽く(はた)いて形を整える。そうして、眼を閉じた。  意識を集中する。  一瞬、己の輪郭が(ほど)けてあやふやになるような感覚があって、だがすぐに元に戻る。──これで、準備は終わりだ。  帽子を被りながら、ほくそ笑む。  俺に騙され餌食となる哀れな侵入者は、今日はどんな奴だろうか。  まあ、だいたい想像はつく。……この足音の軽さ。そいつがどれほど弱く、脆いか。 (女……いや、まだガキか)  後悔するがいい。弱者の分際で軽々しく足を踏み入れたことを。 (この森を侵すなら、何人(なんぴと)たりとも容赦はしない)  パキ……ッと、もう一度、今度こそ間近で小枝を踏む音がして俺は目を開けた。  ゆっくりと振り返る視界を、深い森の色が流れていく。  俺が生きる、黒の世界。そして──行き着いたその先に待っていた色に。  俺の目は釘付けになった。  ────赤────  歩いてきたのは、真っ赤なフード(フート)付きのケープ(ケプヒェン)に身を包んだ少女だった。 (な……んだ、こいつ……)  鮮やかすぎるその色。俺の目にはいっそ薄気味悪くすら映って、思わず一歩下がりそうになった。  『黒い森』にあって、それはあまりにも異質で。  ────〝異質〟。  だが、ふと行き当たったその言葉を反芻して自嘲の笑みが漏れる。  それは、他ならぬ俺が骨身に染みるほど言われてきた言葉だった。……ならば逆に、この森の中で人里の者をそう思うのは当然なのかもしれない。  俺は気付かれないようにそっと息を吐くと、改めて彼女──ガキというほど幼くもないようだ──を見る。  青い空はまだ(まぶた)の裏にはっきりと残っていて、それが一層その赤い色を際立たせた。 (……莫迦か……)  正直、呆れる。  森へ入るなら保護色を選ぶのが基本だろう。  動物たちの中には色を識別できる者も多い。不用意に刺激しないよう、俺ですら生成(きなり)色の上下に長靴(シュティーフェル)は焦げ茶、ベスト(ヴェステ)もトウヒの葉と同じ色のものを選んでいるというのに……。  深く被ったフード(フート)の縁が、少女の瞳を隠していた。しかし俺の存在に気づいたか、息を詰める気配がしてぴたりとその足が止まる。  あからさまに伝わってくる緊張の波に、込み上げる笑いをどうにか呑み下す。──これだけ目立つ服を着ておいて、今更まわりを警戒するのか。  本当に愚かだ、女というのは。  いや、『人間』というのは、か。  俺は────『人狼』。  神聖な森を汚す者を粛清し、森の深淵の秩序を正す、『黒い森』の〝調整者(アインシュテラー)〟。 (ここを侵すものは(すべ)て──俺の、モノだ) 「────こんにちは。お嬢さん」  俺はにっこりと笑顔を作った。  さあ…………狩のはじまりだ。
/185ページ

最初のコメントを投稿しよう!