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「──お嬢さん、どちらに?」
少女との会話は、そんな一言から始まった。話しかけられて驚いたのか、フードの縁取りにあしらわれた白いレースの隙間からわずかに瞳が覗く。
俺は綺麗な笑顔で言葉を紡いだ。
──“こんな森の中、おひとりでは危ないですよ?”
──“どちらまで行かれるのですか?”
──“もしよろしければ、貴女の行かれる場所までお送りいたしましょうか……”
旅人を装って、するすると出てくる紳士の言葉。
この森に棲むようになってから何度口にしたのかなんて……もう忘れてしまった。
『黒い森の人狼』
ヒトの世界よりそう呼ばれ、畏れられる存在になってどれほどの月日が流れただろう。
俺はこの森に入り込んだ人間を見つけては襲い、主に持ち物や衣類を奪って森から追い払った。
別に好き好んで命までは奪わないし(帰って来ないのを心配した連中が森に探しに来るので鬱陶しいのだ)、勿論、食べたりもしない。
抵抗が激しい時なんかは、たまに……相手が勝手に命を落とすことは、あったかもしれないが。まあ、それは不可抗力だろう。
目的はあくまで奴らの所持品だ。
特に……実に魅惑的な、食べ物の数々。
──パン。
──ケーキ。
──ソーセージ。
──ビールに蒸留酒。
森では決して手に入らないそれらは、俺に極上の満足を与えてくれる。
(──さて……今日はどうだ?)
優しげな物腰はそのままに、視線はじっと少女の手元に止まっていた。女物の服などに用はないから、今日の狙いは持ち物一択だ。
その腕に掛かる、大きな手籠。その中から、香ばしいパンの匂いと、蕩けそうに甘く芳しい香りが漂っている。これは──
(あぁ……ワインだ)
そのトロリとした濃厚で甘美な舌触りが、乾いた口の中によみがえる。完璧な紳士の笑顔が危うく崩れそうになり、慌てて視線を籠から少女の顔へと戻した。
少女は動かない。じっと、俺の方を見つめている。
(…………焦れったいな)
狩に焦りは禁物、わかってはいても、元来それほど辛抱強い方ではない。早く目の前のご馳走を奪いたくて体が疼き出す。
(もう力尽くでいくか? もし騒ぐようなら、その時は────)
まさに、一歩を踏み出そうとしたその時だった。
ふと、彼女を包む空気が和らいだ。
形のいい小さな唇が少し笑みを作って、被っていたフードをゆっくり肩へと滑らせる。
…………はらり、と金糸のような髪がなびいた。
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