おーい、僕だってば

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おーい、僕だってば

深い眠りの水底から徐々に浮き上がり、眠りと目覚めの狭間の水面をゆらゆらと漂っている様だった。 随分長い間、僕はそんな感覚に包まれていた。 僕を眠りから目覚めへと導いたのは、どこかで聞き覚えのある音、嗅いだ覚えのある薫りだった。 ドリップで入れるコーヒーの何とも言えない素敵な薫り。ん? これはベーコンを焼く時の弾ける音かな? なんだか懐かしい。こんな朝を幾度も積み重ねてきた気がする。 僕は安堵という名の毛布から抜け出す様な気持ちで、ゆっくり瞼を開ける。 キッチンで朝食を作っているらしい女性の後ろ姿が見えた。 ん? 見覚えのある髪を束ねたシュシュ、自分では好きではないと言ってたけど、僕は「そんなに悪い事ないんじゃない?」と言ってはフォローしていたお尻。間違いない、僕の妻だ。 僕は彼女の名を呼び、話しかけた。「ねえ、優乃。僕だよ」そう呼びかけたのだが。 「ワンッ!」 あれ?何で「ワンッ!」って言ってるんだ?よし、もう一度。「優乃、こっちを向いて」 「ワンッ、ワ、ワンッ」 やっぱり犬のまね、というか犬の鳴き声になってしまう。何度やっても同じ。 しまいには優乃に「もう、静かにしなさい。シマ君」と優しく嗜められてしまった。 ん? シマ君? それ僕の学生の時の渾名じゃないか。 声で伝わらないなら、彼女に近づいて触れてみようと立ち上がってみた。 あれ? 立ってるのに視線が低い……僕の身長は彼女より10㎝以上高いはずなのに。 それに、何やらお尻に違和感がある。僕は振り返って自分のお尻を見た。 尻尾……え? 何? 何で? 僕の視界には、細くて長い尻尾が。しかも、左右に振っている。 僕は、ある仮説を立てて部屋の片隅にある姿見の前に行ってみた。 仮説は仮説で無くなった。やはり、そうなのか。 姿見には一頭のジャックラッセルテリアが映っていた。つまり、今の僕はこの犬なのか。 改めて、あの深い眠りの中で起きた事を思い出してみた。あの時の声の主が言ったのはこういう事だったんだ。 僕が今、置かれている状況を頭を中で整理していると、彼女が皿を持ってこちらに近づいてきた。 「お待たせ。これ、シマ君のご飯ね」 そう言って彼女が僕の前に置いた皿には犬用のドライフードが盛られていた。 これ、食べるのか。暫く食べるのを躊躇していると、その様子を見て彼女が座り込んで話しかけてきた。 「どうしたの? どこか具合悪いの?いつも夢中で食べるのに」 彼女は、僕の頭を優しく撫でながら心配そうに僕の鼻先に顔を寄せてきた。 久しぶりに嗅ぐ彼女の香り。前より強くその香りを感じるのは、僕の嗅覚が以前と比べられないくらい良くなっているからか。 そんな思いを巡らしていたら、はっ、と気づいた。こんな事で彼女を心配させてはダメだと。 僕は、覚悟を決めてドライフードに口を付けた。 あれ、意外にいける。と言うか美味しい。 そうか、今は犬なんだから味覚も犬基準と言う事なんだ。 そう思いながら、ドライフードを食べていると、彼女は安心した様に、また僕の頭を優しく撫でてくれた。 「心配させて、もう。さては、私の気を引こうとしたなぁ」 甘く優しい声で僕に話しかける。そんな風にされたら、なんだか照れと嬉しさで思わず前足で鼻先を掻いてしまうじゃないか。 その様子を彼女は、優しい目差しで見ている。僕は彼女の視線を感じながら、美味しそうに完食した。 彼女も自分の朝食を済ませると、手際よく身仕度を整えた。 そして僕を大きめのケージに入れると「じゃあ、お仕事行ってくるね。お留守番お願いね。行って来ます」そう言って、手を振って出ていった。 僕は手を振れないので、ありったけの力を振り絞って尻尾を振って答えた。
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