19 八月九日、美咲と家庭教師

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「名前で呼ばないでよ……」  悲痛な叫び声は悲鳴のように聞こえて、碧理達は黙り込む。  美咲の様子と慎吾の呟きで、碧理と蒼太、そして翠子は察した。  彼が美咲の好きな相手なのだと。  だが、さっきまで結婚したいと言っていた割に、美咲の態度は不自然だ。どうみても男性を避けて逃げようとしている。 「美咲。説明させてくれないか? あの時、本当は、俺は……」 「聞きたくない!」  そう美咲が叫ぶと、タイミングよく電車が駅に到着しドアが開く。  それを見た美咲が一目散に駆け出した。 「美咲!」  声を荒げた男性を横目に、碧理達も電車から急いで降りようとする。だが、その時、碧理の手が掴まれる。  驚いて顔を上げると、美咲を知っているスーツ姿の男性が、手に何かを握らせた。 「いきなりごめんね。美咲にこれを渡して。無理だったら君が電話してくれたら助かる。誤解があるんだ……頼む」 「花木さん!」  中々、電車から降りて来ない碧理を心配して、蒼太が碧理のもう片方の手を掴む。そして発車ベルが鳴り響く中、電車から急いで降りる。  すると、すぐに電車のドアが閉まり動き出した。  ドア越しに碧理と蒼太を見つめる男性は、大人なのに、今にも泣きそうな顔をしている。 「行こう、花木さん」 「う、うん」  蒼太に手を引っ張られ歩き出す。  男性に握らされた手の中には一枚の名刺。それは無理矢理渡されたせいで、くしゃくしゃになっていた。  歩きながら確認すると、そこには会社名と電話番号。そして名前が書いてある。 「黒川健人……製薬会社なんだ」 「あの人の名刺? 花木さん、裏にも何か書いてあるよ」  誰でも聞いたことのある企業名に驚いて足を止めると、蒼太も名刺に気づき覗き込んでくる。  言われた通り名刺の裏を見ると、そこには電話番号が手書きで書かれていた。 「個人のプライベートの番号じゃない? あの瞬間に書く暇はないと思うから用意してあったんだね。それにしても白川の態度も不可解だ。結婚したいようには見えないな」  蒼太も碧理と同じ感想を持ったらしい。  どうやら美咲には言えない秘密があって、それが「紺碧の洞窟」を目指す理由なのだと碧理は予想した。 「白川に渡すの? その名刺」 「……うーん。ちょっと考える。美咲の様子も気になるから保留で。森里君もこの件は秘密ね」 「……そうだね。あ、慎吾があそこにいる。行こう」  碧理の言葉に少しだけ考えるそぶりを見せたが、改札の側にいる慎吾の姿を見て頷いた。  そして、あることに碧理は気が付く。  蒼太と電車を降りた時からずっと手を繋いでいることに。  顔を赤くしながら指摘しようとした碧理だが、蒼太は気にしていない様子で、待っている慎吾の元へと向かって行く。 「……お前ら付き合うことにしたのか? 仲良いな」  碧理と蒼太の手を見ながら、慎吾がからかうように笑った。 「ち、違うから。私がモタモタしていたから森里君が気を使ってくれただけ」 「ふーん。なら、迷子予防にお前ら手を繋いでいろよ。行くぞ。夕方には着きたいから急ぐぞ」  嬉しいやら恥ずかしいやらで、言葉にならない碧理とは違い、蒼太は涼しい顔をしていて動揺は見えない。  しかも、手を離さない所を見ると、しばらくこのままらしく、またしても碧理の心は動揺した。  いつもならここで何かを言ってくれそうな、美咲や翠子の姿が見えないことに気づく。 「美咲と翠子さんは?」 「二人なら、皆の飲み物やお菓子買いに行った。次に乗る電車は二時間かかるからな……。ホームで待ち合わせだから行くぞ」  そう言うと、慎吾がまたホームへと歩き出す。  その間も、蒼太は碧理の手を離さない。 その状況を意識する度に、碧理の心は跳ね上がる。 「あの、森里君。そろそろ手を離してくれないかな? その……恥ずかしいから。それに、迷子にはならないと思うの」  手を離さないのは、慎吾が言ったように迷子になるのが心配なのだと碧理は思った。  そうでなければ、本来、関わることのない平凡な碧理を、スクールカースト上位の蒼太が構うことはないと考えたからだ。 「あ、ごめんね。さっきみたいなことにならないように気を付けてね」  すんなりと蒼太が手を離す。  解かれた手からは温もりが消えて、自分から言い出したのに、碧理は残念さと少し寂しさを覚えた。 「三人共、こっちだよ。電車が凄く混んでいるから席は別れよう。行き先はここね。私は一人で大丈夫だから目的地で会おう。あ、これお菓子と飲み物ね」  ホームに出ると、美咲と翠子が三人を待っていた。手にはコンビニの袋を持って。  電車は始発らしく、もう到着していて人が乗り込んでいる。  確かに、さっき乗った電車よりも人は多い。  しかも、美咲はさっきの男性のことを聞かれたくないらしく、一人になろうとする。全員の了承を得ずに背を向けて歩き出した。  そんな美咲を一人にすることは出来なくて、碧理は美咲を追い駆けて腕を掴む。 「私も一緒に行くから。あとでね!」  驚いた表情の美咲を無視して、碧理が後ろにいる三人に声をかけた。そして、人が少なそうな車両に乗り込む。  残念ながら座れず、しばらくは立ったままになりそうだ。 「……何も話さないからね」  他の乗客に聞かれないように、美咲が碧理の耳元で囁く。 そして碧理に背を向けると、すぐにスマホを取り出して操作し始めた。  二人の間に沈黙が流れる。  ドアの近くに陣とった碧理は、走り出した電車から外の風景を無言で見つめた。
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