19 八月九日、美咲と家庭教師

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『碧理か? ……外泊する時は事前に言いなさい。連泊すると相手の家にも迷惑だ。すぐに帰って来なさい』  拓真と一対一で話したのはいつのことだったかと碧理は考える。  それどころか、電話をかけてきたことすら初めてのような気がした。 「……今日は帰らない。明日帰るから」  小さな声でそう答えると、電話の向こうから溜め息が聞こえる。 『家で何かあったのか? 香菜と冬矢と……二人と何かあったのか?』  いつも、あまり感情を表に出さない拓真にしては珍しく、緊張した声色だった。どこか不安げで碧理を気遣っているようにも思えた。 「……別になにもないけど」  まさか居場所がなくて、家にはいたくないとは、さすがの碧理も直接言えない。そんなことを言うと、三人の幸せな家庭が壊れてしまう。  だから碧理は嘘を吐いた。 『……碧理』  長年コミュニケーション不足な二人は、それ以上会話が続かず沈黙が続く。  すると、そんな碧理のスマホがいきなり奪われた。 「初めまして。白川美咲と言います……」  何が起こったのかわからず、茫然としている碧理を見ながら美咲は話し出す。  どうやらアリバイ工作の一環らしい。あんなにも話が続かなかった拓真とも、美咲はにこやかに会話をしている。  引きこもりなのに、美咲のコミュニケーション能力は高いらしい。  連泊に難色を示している拓真に向かって「大学受験のために、近くの図書館や知り合いの大学生に勉強を見て貰っている。そしてキャンパス見学に言っている」など、美咲は嘘を流暢に語っている。  しばらくすると話が纏まったようで、ふいにスマホを渡された。  受け取るか躊躇する迷う碧理に、苦笑しながら美咲が無理やり押し付ける。 「不審がられないようにね」  こっそりと囁かれた声に碧理は頷いた。 そして、勇気を出して口を開く。 「もしもし。明日……帰るから。……うん。わかった」  拓真に、美咲の家族にくれぐれも迷惑をかけないようにと念押しされる。何度も「わかった」と頷く碧理が通話を切ろうとすると、ふいに引き止められた。 「……なに?」 『帰って来るのを待ってるから。明日の夜は、久しぶりにご飯でも食べに行こう。何が食べたいか考えておいてくれ』  そう言うと、碧理の返事を聞く前に通話が切れた。  まさかの外食の提案に、碧理は混乱する。  離婚してから初めてだった。拓真が碧理を食事に連れて行ってくれることも、一緒に何処かへ行こうと誘うことも。 「なに、変な顔してんの? やっぱり、すぐ帰れって言われたとか?」  切れたスマホを見つめたままの碧理に、美咲は焦ったように話しかけた。  ここで家に帰ることになったら、せっかくここまで来た過程が無駄になる。噂でも、嘘でも何かを見つけたい。 「……ううん。何か、帰って来たら外食行こうって。しかも、何を食べたいか考えとけって。……そんなこと初めて言われたんだけど。……何を食べたら良いのかわからない」  真剣に碧理は困っていた。  思春期特有の、親と一緒にいる所を友達に見られたくない。そんな感情ではない。初めての出来事に碧理の経験値が足りないのだ。 「なんだ、そんなこと。お寿司やファミレス。それに焼き肉でも何処でも良いじゃん。たまには外食も良いよね。家族皆でなんて羨ましい」  そう言って空を見上げた美咲は、清々しいほどに吹っ切れていた。  美咲の方が重い電話だったはずなのに、どことなく嬉しそうにも見える。 「美咲はどうだったの? 黒川さんとの電話」 「うーん。予想通りの……誤解だって言われた」  黒川健人が言うには、美咲のママと健人が抱き合っていたのは、事故とのこと。  お茶を運んでいた美咲のママがつまずいて、それを助けようとして抱き止めた。そこへタイミング良く美咲が現れ誤解された。 そんな漫画や小説のような話を聞かされたらしい。 「……それでどうするの? 信じる?」 「信じる訳ないじゃん。それならママも兄貴もすぐに言えることでしょ? それにさ、健人君は、赤谷を私の彼氏と勘違いしてた……」  電車の中でも、慎吾と美咲が一緒にいる姿を見て、健人は恋人同士だと勘違いをしたらしい。  それについては誤解だと突っぱねたが、何を言っても「幸せにね」としか言わない健人に、美咲は落ち込み諦めたらしい。   やっぱり自分は彼の恋愛対象ではなかったのだと。 「まだ好きなんだね、やっぱり」 「……そうみたい。でもさ! なら、最初から年下は好みじゃないとか、好きじゃないとか言って欲しくない? ずるいよ……何も言わずに私に諦めさせるなんて」  優しさは時に人を傷つける。  健人がきっぱりと美咲を拒絶していたら、ここまでこじれなかった。そして、美咲もまた次へといけただろう。  人の心は時に残酷だ。 「でも、それも今日限りにする。だって、私のことを健人君は好きじゃないんだもん。やっぱり結婚するなら……私を好きになってくれる人じゃないと。だから、紺碧の洞窟では幸せな結婚を願うわ!」  強がりなのか、心配をかけまいとしているのか、それとも恋愛脳なのか。美咲は滲んでいる涙を拭いて、にこやかに笑った。 「――おい、そこの二人。話は終わったか? 色々買って来たから食べるぞ」  いつからいたのか不明だが、いつの間にか慎吾と翠子。そして蒼太がこっちを見ていた。  手には、屋台で買ったであろうビニール袋をいくつも下げて。
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