6 記憶喪失三人目

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6 記憶喪失三人目

「花木。こっちだ」  次の日の放課後、約束を破って逃げようかと思案していた碧理の元へ、その考えを見透かすように慎吾が現れた。  ホームルームが終わったばかりの教室には、まだクラスメイトが大勢残っていて、視線が碧理に集中する。  そのいたたまれなさに、碧理の顔色はすぐれない。  昨日、教室へ戻ったのは、午後の授業とホームルームが終わってから。結局、色々考えていたら、いつの間にか授業が終わっていた。  それから教室へ戻ると、当たり前のように視線が突き刺さり、瑠衣からは質問攻めに合う始末。今日も朝からクラスメイトの視線が痛かった。  碧理は慎吾と距離を置けば、クラスメイト達の関心も薄れるだろうと思っていたが、まさかの慎吾の突撃に溜め息すら出てこない。 「――碧理!」 「ごめん。今は何も言えない。じゃあ、帰るね、バイバイ」  傍にいた瑠衣にぐったりしながら返事を返す。その答えに瑠衣は不満げな顔を見せたが、自分のことに精一杯な碧理の態度は冷たかった。  鞄を持ち慎吾に近寄ると碧理は睨みつける。 「……何で教室に来るのよ」 「来ないと、お前逃げるだろ? だから迎えに来た」 「お前って言わないで。私が一番嫌いな言葉よ」  そう言うと、碧理は慎吾を無視して歩き出す。 「おい……花木」 「その身勝手で自分が一番正しい。みたいな考え直してよ。これからの私の学生生活最悪よ。今まで平凡が取り柄だったのに。明日から針の寧ろだわ」  怒っている碧理は気が付かない。  自分が慎吾に説教していることに。しかも、仲の良い友達のような口調で話していることも。  碧理を追い駆けていた慎吾が困ったように頭をかく。  その様子を周りの生徒達が驚き見ている。碧理達が去った後で「二人が付き合っている」と噂が広まったことを知るのは次の日のこと。 「で、どこに行くのよ」  学校から少し離れた場所にある公園で、二人は向かい合っていた。  まだ怒っている碧理は腕を組み仁王立ちだ。対する慎吾は、困ったように周りを見渡した。学校では皆から避けられているライオンとは思えない。 「もうすぐ来るから。少し待てって……来た。こっちだ!」  慎吾が公園内を見渡すと、目宛ての人物がいたようで大きく手を振った。 碧理もつられて視線を向ける。  そこには清楚なセーラー服姿の女子高校生の姿。  慎吾の声に気が付き、安心したように近づいて来る彼女の姿に碧理は息を呑んだ。  胸元までの真っ直ぐな黒髪に大きな瞳は、電車の中で反論してきたあの時と同じように、碧理を真っ直ぐに見据えていた。 「初めまして。高田翠子です」  ふわりと微笑み丁寧に碧理に頭を下げる。名前を名乗る翠子は、正真正銘、深窓のお嬢様だ。 「……なんで?」  碧理は名乗るのも忘れて、翠子の隣に立った慎吾を見る。 「決定だ。『誰?』じゃなくて『なんで?』か。その様子だと翠子のことも知っているんだな。花木、お前が俺達の失われた記憶を知っているのは確定だ。全部話せ。あの日、何があったのかを」 「……何度も言うように知らない」 「花木!」  帰ろうと背を向けた碧理の腕を慎吾が乱暴に掴む。 「触らないでよ!」 「あの、お願いします。知っているなら教えて下さい。あの三日間で何があったのか。お願いします」  手を振り払い、押し問答を始めた二人を止めたのは翠子だった。  翠子が、碧理と慎吾の間に入ってくると頭を下げる。  顔を上げて真っ直ぐに見つめてくる翠子に、碧理は初めて会った時のことを思い出す。泣いてばかりで、自分のことを名前で呼ぶ翠子。  でも、一緒に過ごす内に、本当は凄く優しいことも碧理は知っていた。  なのに、翠子も碧理のことを忘れている。一人だけ記憶があるのだと思うと歯がゆくて辛くて、そして……泣きたくなるほど残酷だった。 「私、あなたのことが大嫌いなの。赤谷のことが好きなら自分から動けば良いじゃない! 待ってばかりで、いつも誰かの背中に隠れている翠子が私は大嫌いよ」  これは八つ当たりだ。  あの時と同じことを言っている。また慎吾の後ろで、守られている翠子が羨ましかったから。  だが、言ってしまってから碧理は青ざめた。  これでは、知っていると二人に教えているようなものだから。しかも、余計なことを言ってしまった。  あの時と状況は全く違う。  二人は別れようとしていない。それは二人の間に漂う空気でわかる。あの三日間の記憶がないのなら、二人は付き合っているままだろう。  なのに、碧理は我を忘れて言ってはならない言葉を投げつけた。  しかも、翠子を敬称なしで呼んでいる。  目の前の二人は驚いたように立ち尽くしたまま動かない。 「ご、ごめんなさい」 「待って!」  背を向けて逃げようとする碧理に声をかけてきたのは慎吾ではなく翠子だった。 「このハンカチ、あなたのでしょ? 花木碧理さん」  ハンカチ。そう聞いて振り返ると、翠子の手にはネイビーのハンカチ。四つ角の一つに、猫の絵が刺繍してある。  それに碧理は見覚えがあった。彼の物だ。最初は、彼から碧理に渡されたハンカチだった。それを翠子に貸したのだ。  あの時の出来事が蘇りそうになり、碧理は気持ちを抑え込む。 「……違うよ。それは私のじゃない。ごめん」  今度こそ走り出した。 そんな碧理を二人は止めずに見送った。
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