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第ニ章 いじめ
いつも通り朝礼を終え、田山先生は教壇を降りた。
「あっそうだ!」音量大き目の独り言を放ち、再び生徒達へ振り返る。
すると、みんな教科書を手に席を立ち始めていた。
「あれ?どうしたの?」手近な女生徒に尋ねると「1時間目視聴覚室なんで」という返事だった。
「あーそうなんだ。あっ!ちょっとみんな、聞いてくれる!」
一応先生の言う事なんで、みんな動きを止めた。
「あのね、明日の放課後に図書委員会の集まりがあって、各クラスから1人ずつ出席しなきゃなんだけど・・・」
甘えたような声を出す副担任を、生徒達は冷ややかに眺めている。
「ほらっうちの図書委員は、ずっとお休みしてるから・・・誰か代わりに」
ここまで聞くと、生徒達は先生の話を聞き流し始める。出入り口に近い生徒はさっさと出て行ってしまう。
うろたえた先生は、近くの生徒に直接頼んでみるが、
「急に言われても用事あるし」
「塾なんで」
「部活!最後の大会近いから」
女子にも男子にも、次々に断られる。
「あ〜あ、困っちゃったなぁ〜」
職員室のみならず教室でさえ、同情を引くように大きな独り言とため息をつく癖がすっかり身についている。
そんな先生は見慣れたもの。今更手を差し伸べる生徒は、この教室には・・・一人しかいなかった。
「先生、宜しければ私が・・・」
長峰が手を挙げた。
「えっ本当!いいの?」
「はい、私は部活も塾もありませんので」
「わぁ〜助かる!ありがとう!」
・・・確か数日前に、この人は転入生に対し『困った事があったら・・・』と言っていた筈だが、もう忘れてしまったらしい。
心配事が解消され、田山先生は晴れ晴れとした表情で、視聴覚室へ向かう生徒達に紛れて教室を去る。
長峰も清香達と、教室移動の準備に入った。
「長峰さん、自分からすすんで委員の仕事なんて偉いね。しかも塾通ってないなんて・・・」
清香の最後の方の言葉はちっちゃ過ぎて聞こえない。被せて千里が口を挟んだ。
「でもさぁ図書委員の代わりはしない方が良かったのに」
「どうして?」
「だって、それって朽木 るりあの代わりって事になっちゃうでしょ?」
その名を長峰は初めて聞いた。出席の時も、先生がとばした名前だと察した。
(・・・廊下側のあの空席!?)
「その人って・・・」
「しっ!」
口を開きかけた長峰を、奈緒が小声で制した。奈緒は、自分達の左斜め後ろを警戒して瞳を動かす。
「廊下で話そう」
あくまで小声で、長峰を押すようにする。清香も千里も黙って歩き出す・・・この3人のクラスメイトの、こんな真剣な顔を見たのは初めてだった。
長峰はちらりとだけ後ろに目をやった。あらかたの生徒が視聴覚室へ向かった後の教室に、留まっている一団があった。
彼らは霞城 珠瑛琉の周りに集う。
霞城は『ジュエル』の名が良く似合う、整った顔にモデル体型の美少女だ。
だが、彼女は努めてその顔を大あくびで崩す。綺麗に整えられた茜色の髪を、ボサボサになるように掻き毟る。
「視聴覚室なんて遅れて行けばいい。教室移動なんて面倒な事させる方が悪い」
だからダラダラして動こうとしない。実際、誰も彼女の勝手を咎めない・・・田山先生に限らず、他の教師も同様だ。
ダルそうな瞳で、教室を出てゆく最後の4人を眺める。
「・・・あいつ誰だっけ?」
うざったそうな口調に、彼女の机に張り付いてしゃがんでる2人の女子が答えた。
「転校生でしょ?長峰とかいう名前」
「なんか優等生気取りらしいよ。ほら、大声で号令かけた奴」
揃ってにやにやしながら、霞城を見上げている。
霞城の傍らに、他に男子が2人いる。机に椅子を寄せて座っている方は、卑屈っぽい目でここぞとばかりに悪態をついた。
「転入試験受かったって、どうせガリ勉だろ?あんな分厚い眼鏡かけてんだ」
もう一人の男子は背が高い。霞城の斜め後ろに立っている。ふっと鼻で笑った。
「お前ら悪い事しか言わねぇな。運動神経いいらしいぜ。あとサッカー部が騒いでる・・・結構な美形だってよ」
「へぇ〜」一通り聞いた後の、霞城の返事はそれだけだった。
「なに?ちょっと気に入らなかったりする?」
女子の一人がにやにや笑いを続けながら言う。霞城は黙った・・・と思ったら、また大あくびをする準備をしていただけだった。あくびをしながら、
「転校生なんて、どぉ〜でもいいわ」と言った。
これを聞いて、一拍置いてから女子2人は声を揃えた。
「そうだよね!転校生なんてどうだっていいよね!私らには関係ないしね」
この2人にとって、とにかく大事なのは霞城の意見に沿うことだ。下手を打って、機嫌を損ねるのを何よりも恐れている。だから常に顔色を伺い、女王のお考えに神経を尖らかせている。
あくびしてから、霞城は椅子の背に身体をもたらせた姿勢で、首だけ後ろに向けた。視線の先は教室の後ろ扉だが、彼女が見ているのは、その直前のずっと空いている机と椅子だった。
他の4人は、彼女の御心を察した。
「ねぇ、あいつ何でずっと休んでる訳?ちょっと調子乗ってんじゃないの?」
女王配下の女子の動きは早い。ノートを破いて、マジックペンで手紙を書いた。
『ずっとお休みで心配しています。学校来て下さい』
「帰りにこれ、あいつん家のドアに貼ってくるね」
文面を見せると、霞城は満足気に笑みを浮かべる。
「私が会いたがってるって書いといて」
女王の言葉は直ぐに実行される。
『Kさんが会いたいって』と書き足す。
女王は口角を吊り上げ、瞳をランランと輝かせる。
「これで来なかったら、ぶっ殺す」
翌朝、長峰の心はざわついていた。
結局のところ、クラスメイトから詳しい情報を得ることは出来なかった。廊下でも視聴覚室でも、放課後に寮に戻ってからも。
「関わり合いにならない方がいい」
彼女達は口を揃えて言った。
そしてその表情を見るに・・・彼女達自身が、恐れを抱いている事が伝わってくる。『それ』についてあれこれ喋ることは、災いとなって自分の身に降りかかる可能性があるのだ。
(彼女達を巻き込んではいけない)
察して心に決めた。だから、
「分かった、ありがとう。気をつける」とだけ返事をした。
(実際『いじめ』があるのだとしても、先ずは静観すべきだ)
それは『研修』に入る前から決めていた、自らに課したルールだった。
(双方の事情を冷静に分析した上で、対処方を考察するべきだ)
だから感情は抑える。自分は時として冷静さを失う傾向がある。そう、気をつけないと・・・
(朝礼の後、先生に聞いてみよう。教室を出てから、他の生徒には気づかれないように)
それが今朝のカリキュラムだった。長峰は一人、教室内で高鳴る胸を抑えていた。
時間になり、教室の前の扉を開けて田山先生が現れた。いつも通りに朝礼、そして出席を取り始める。
長峰は気持ちを落ち着かせようと瞳を閉じていた。五十音順の名前が次々に呼ばれてゆく・・・
そして「菊地さん」の後だ。先生の声が止まった・・・瞳を開くと、先生が引きつった顔して固まっている。
先生の視線を追って、ゆっくりと長峰は振り返った。ドキドキという鼓動が止められなく響く。
廊下側の一番後ろの席に誰かいる・・・痩せて青白い顔の、艶のない髪を後ろで縛った・・・おどおどした瞳の女子。
「・・・・・・く、ちきさん」
「・・・・・・はい」
(いつの間に教室に?)
前にいる先生にすら気づかれずに、そうっと後ろ扉から入っていたらしい。
(先生はなんて声をかけるのか?)
長峰が次に浮かべた疑問だった。
「工藤さん」・・・と出席を続けた!
(一週間も休んだ生徒に一声も掛けずに!?)
長峰は内心驚いた。はっとして向き直ると、先生は廊下側の席から目を背けているようだった。
ふと気づくと、教室全体が妙な雰囲気に包まれていた。他の生徒達も、久しぶりに登校したクラスメイトを気に掛けていない。
(いや!気にしているんだ。その上で何事も無さ気に振る舞っている!!)
斜め後方から、更に妙な雰囲気を感じる。ぼそぼそとした話し声・・・押し殺したような笑い声。
霞城さんとその両横の席、副島さんと下谷さん。
(今までに感じたことが無いくらい・・・不快な気分だわ)
そそくさと朝礼を切り上げ、そそくさと出て行く田山先生を、長峰は追いかけようとした。
しかし、その声が耳に入って足が止まった、
「るりあ〜ちょっと来て〜」霞城は気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
『るりあ』と呼ばれた子は動かない。ただ真っ青な顔で、瞳を震わせていた。
「命令聞こえないのか〜」これは男子の声だ。霞城の真後ろの席。
「じゃあ連行するか、菰野」席を立つとひょろりと背が高い。名を呼ばれた菰野も立つ、こちらはずんぐりとしている。
男子2人が近づくと、るりあは慌てて立ち上がった。
よろよろと霞城の席に歩み寄る。
「ねぇねぇ、何で休んでたの?」
「病気?伝染病とか?ダメだよ〜不潔にしてたら」
声を浴びせ始めたのは、副島と下谷だ。霞城は、笑みを浮かべて黙っている。
るりあの顔はもう青だか紫だか・・・痩せた身体に震えが起こる。副島、下谷は面白そうに畳み掛ける。
「ちょっと!吐かないでよ、ゲロ女!」
この『ゲロ女』というワードには、他の生徒も反応してゲラゲラという笑い声が起こる。
るりあは震える瞳で教室中を見渡した。
その時、長峰は「あっ」と思った。霞城が自分の机から筆箱を床に落とした。
ガシャン!という大きな音がして、全員が笑いを止めた。続けて遂に口を開いた霞城の嘲るような声。
「ねぇ落ちたんだけど」
るりあは一瞬きょとんとしたけれど、言わんとする処は察しがついた。
しゃがみ込んで、飛び散ったシャーペンや消しゴムを拾い集める。震える手で、それを机に戻そうとすると・・・
「捨てて」と言われた。
「ゲロ女の触った物なんか使えないでしょ?」
筆箱を手にしたまま、るりあはどうしていいか困って立ち竦んだ。
「ゆうこと分かんねぇのかよ!!」
ガンッ!床を蹴る音が響く。怖くて、るりあはごみ箱へ走った。ごみ箱は廊下側の角・・・つまり、自分の席の真後ろだった。きょどきょどとしながらも、霞城の視線に促されて筆箱を捨てた。
「なんで捨てたの〜?」
るりあはハッとして振り返った。霞城の笑みは、悪魔のそれだ。
「なんで人の物捨てたのか、ちゃんと説明してくれる〜?」
震える瞳に涙をいっぱい溜めて、るりあは声を震わせた。
「汚いから・・・ゲロ女が触って・・・汚くなったから・・・」
「あははははっ!こいつゲロ女って認めてるよ!!」
悪魔の笑い声が高鳴った、仲間達も罵声を浴びせる。他の生徒もつられ、教室中に湧き上がった声の暴力が、たった一人の女子に襲い掛かる。
るりあは耳を塞ぐ。ぎゅっと閉じた瞳から涙が滲み、冷たい汗と混じって頬を流れる。全員が尋常じゃない程に、ガタガタと震えてる。
だがこれで終わりでは無い。霞城配下の4人は、ノートを破き紙屑を作って、それをるりあに投げつけた。
「これも捨てとけよゲロ女!」
紙屑は、るりあの顔にぶつかって床に落ちた。続けて飛んできては、顔や身体に見えない傷を付ける。
るりあは拾った。よろよろと体勢を崩して、床に四つん這いになって、這いつくばって・・・手にした紙屑を、必死でごみ箱へと運ぶ。
しかし、いくら拾っても次々に飛んでくる。鼻をかんだティッシュも投げつけられた。
あまりにも惨めな姿だった。
そして遂に動かなくなった。床で小さな塊になって・・・それでも紙屑は降り注ぎ続ける。降り積もるごみに埋もれながら、るりあは許しを乞うている。声にならない叫び声を上げている。
全身を痙攣したように震わせて・・・涙を冷たい床に擦り付けて。
確かに長峰 遥は決心していた。『いじめ』を静観すると・・・だが、今、彼女は動かないのでは無く、動けないのだった。
初めて目の当たりにする本当の『いじめ』を前に、頭の中が混乱し切った。
(これが『いじめ』?これが『いじめ』なの!?たった一人の女の子をよってたかって・・・ううん、分かってる筈だった。本やネットの記事を読んだ。だけど、だけど・・・謝ってるのに!あんなに、あんなに泣いてるのに!!
心も身体も、あんなに痛めつけて!誰も止めようとしない、まだ足りないの?どうしたら満足するって言うの!?
・・・これが『いじめ』・・・これが、私が知りたかったものなの・・・)
パタパタと田山先生は職員室に向かっていた。一人勝手に被害者意識に駆られながら。
職員室の席に着いたところで、お決まりの溜息をついて頭を抱えて見せる。
「あ〜困っちゃったなぁ」
3年の教師は大体揃っていた。「どうしたの?」という近隣の教師達の言葉を受けて、田山先生は頭を上げる。
「朽木 るりあが登校してきたんです。2学期からずっと休んでたのに」
周りの教師達も、その問題は把握しているらしく「ああ〜」と声を発した。
「正直言って、彼女にとって学校は苦しい場所でしか無い筈ですし・・・」
田山先生は自分では、はっきりと口にしないで、他の教師が捕捉してくれるに任せた。
「休学とか、退学とかいう道もある」
また、他の教師も田山先生に同情的な意見を述べてくれた。
「どのクラスでも似たような事はあるけど、3-Aのは特に酷いものね」
田山先生はうんうんと頷く、周りの教師達も頷く・・・心の中では、(我がままで、手の打ちようが無いお嬢様がいらっしゃるからなぁ)と呟いている。
「『いじめ』に教師が介入するのは考え物だしな」
ある教師が言った言葉に反応して、田山先生は身を乗り出した。
「やっぱりそう思いますよね?教師が何とか出来る事じゃないですよね!」
田山先生は、またこれ見よがしに頭を抱える。
「はぁ〜生徒の間で何とかならないかなぁ・・・友達とか。誰か、彼女を守ってあげられる人がいればなぁ」
「それは逆ね」
突然の声に「えっ?」と思って、田山先生は振り返った。
彼女の席の後ろには、背中合わせにデスクが並んでいる。真後ろのイスに、今は誰もいない。
ついさっきまでそこに座っていた女性教師は、既に職員室から出て扉を閉めた。
田山先生は彼女の後ろ姿を目で追って、不思議な気持ちになっていた。
自分と同じく、3学年を担当している先生。冷たくて怖い感じの人。今まで一度として言葉を交わした記憶はない。自分の事なんて相手にしていない・・・そんな空気を、ずっと感じていた。
彼女が初めて、自分の会話に口を挟んだ。どうゆう風の吹き回しだろうか?そして・・・
(『逆』ってどうゆう意味なんだろう?)
長峰の心は後悔でいっぱいだった。もう『研修』なんて頭から消えていた。
(とにかく、あの子と話そう。なにか力になれるかも知れない)
しかしそれが上手くいかない。授業が終わる度に振り向くが、るりあの姿はそこには無い。
休憩時間になった途端に、教室から飛び出してしまうらしい。そして始業直前に、こそっと戻ってきてる。
ちょっと探しに出てはみた。トイレにはいない、別の階のトイレか・・・それとも他のどこかか。
(昼休みなら、きっと機会があるわ)そう信じて4時間目の終了を待った。
霞城学園では昼食は給食であり、自らの席で食べるのがルールだった。けれど、教室の中に空席がいくつか見受けられた。給食が載っているのに、生徒の姿が見えない席が数か所。
そして、るりあの机には給食すら載せられていない。
「ふぅ・・・」溜息をついて、長峰は思った。
(早く食べて探しに行かなきゃ)
校舎を離れて、裏庭を挟んだ先に一群の低い建物がある。倉庫と用務員室が並び、生徒はまず寄り付かない領域だ。
その建物の軒下で、校舎の窓から見えない様にして、るりあはしゃがんでいた。
古びたトートバッグから、銀紙に包んだおにぎりと、僅かばかりのおかずを取り出す。
だが、小動物の様に音に敏感なるりあは、砂利を踏みしめる数人の足音に気づいた。
(逃げよう)としたが間に合わない。建物の陰から5人の男女が現れ、るりあは教室の時と同じように震え出した。
常に姿を消す、るりあを長峰は見つけられない。しかし見つけられる者には見つけられる。霞城のグループは苦も無く、るりあを見つけ出し追い詰めるのだった。
素早く前に出た男子に両脇を塞がれてしまい、るりあは縮こまった。
「あれぇ〜今日もお弁当?美味しそうねぇ」
霞城の両翼の如き女子が、るりあの震える手の品を見つけた。副島がひゅっと奪い取る。
「中身は何かな〜」おにぎりを手掴みで崩し、必要以上にぐちゃぐちゃにする。
「あ〜梅干しだ〜」下谷がご飯の間から摘み上げ、るりあの唇にくっつけた。
ぎゅっと唇を閉じると、頬や鼻の上で梅干しを転がし、擦り付け始める。それでも我慢していると、鼻の穴にあてがい押し込もうとした。堪らずに顔を背ける。
「食えよ」霞城が低い声を発する。
るりあは諦めて、口を開けるしか無かった。ポンと梅干しが投げ込まれる・・・酸っぱくてしょっぱい。
「ほら〜ご飯も」副島がぐちゃぐちゃにした米を、手掴みで差し出す。
以前、教室で同じ事をされた。ご飯を詰められ、更に指を喉に突っ込まれて、思わず吐き出してしまった。
それが『ゲロ女』の所以だった。あの時の気持ち悪さが蘇って、るりあは嗚咽を始めた。
霞城も黙って見ていたが、意外なところからストップがかかった。
「やめねえ?昼飯前にゲロなんか見たくないだろ?」
るりあの肩を抑えていた、背の高い男子の意見だ。霞城は成る程と思った。
「戸賀の言う通りだね。飯食いに行こう」霞城が背を向けた。
「えっ?じゃあ教室戻る?」女子2人はさっと霞城に従う。るりあのおにぎりもおかずも地面にばら撒いて。
のそのそ後についた菰野が、踏みつけて行く・・・るりあは悲しい気持ちで、その様を見ていた。
グイッと突然、制服の胸ポケットに指を突っ込まれた。最後に残った背の高い男子の仕業だった。驚いて戸賀の顔を見上げたが、まるで無表情だった。
「冗談でしょ?まずい給食なんて食えないって」
「いいね、何食いに行く?」
霞城に相槌を打って、彼も歩き去る。
るりあの胸ポケットには、紙切れのメモが入っていた。
『命令、今夜19:30に教室にこい』
・・・るりあは、また泣きたくなった。
放課後、長峰は図書室にいた。図書委員の集まりは、新しく入荷した本に図書カードを取り付ける作業の為だった。
確かに先生は『各クラスで一人ずつ』と言った筈だが、3分の1も集まらない。
「仕方がないから始めましょう」
何故か新入りの長峰が音頭をとり、せっせと作業を進めた。しかし時間は過ぎてゆく。
(もう暗くなるわね。8時位までかかるかしら)
結局昼休みも、るりあとは話せず仕舞いだった。放課後に機会がないものかと思ってはいたが・・・
(なんにしても今日は無理ね)
長峰は溜息をつくも、前向きに作業に取り掛かった。
同時刻、理事長室をある女性教師が訪ねた。すーっと背筋を伸ばした、冷静な瞳を湛えた彼女の姿を見ると、理事長は軽く溜息をついた。
その時、理事長の傍らには一人の女生徒がいた。その子へは「隣りへ行っていて」と指示した。
理事長室の隣には、理事長のプライベートルームが設えられていた。化粧台や着替えが揃い、奥にはソファやTVもある。当然、この部屋に入る事が出来るのは限られた・・・例えば娘とかである。
珠瑛琉は部屋で寛ぐことはせずに、扉に聞き耳を立てた。
女性教師の要件は、ほぼ一言で済んだ。彼女が退出すると、理事長は隣室へ入り、笑顔を見せた。
「さあ用事は済んだわ。今夜は外食に行きましょう」
「嬉しい!お母様」無邪気っぽく笑い返す。教室とはまるで別人だ。
髪を整え直し、着崩した制服もきちんとして。霞城学園本来の『凛として美しい模範的な生徒』の姿を体現している。普段はしかめっ面ばかりの理事長も、美しい我が娘を目にすると頬が緩むのだった。
珠瑛琉は母の前では、良い子として振る舞っている。でも実際は、盗み聞きとかして行儀が悪い。
「ごめんなさい。少しだけ聞こえてしまったのだけれど・・・戸賀君どうかしたの?」
理事長はその問いには「何でも無いのよ」と答えるのみだった。
・・・その戸賀は、教室にいた。グループ内の仲間では、唯一の男子である菰野を伴っていた。
てっきり霞城達女子が一緒だと思っていた菰野は、戸賀の計画を聞かされて驚いていた。
「まさか!あの『ゲロ女』と!?」
「いいんだよ。あいつは物なんだから、俺達の好きにしていいんだ」
妙に無表情な戸賀に、菰野は不気味さを感じた。
「だから、お前も一緒に」という申し出に、しかし菰野は怖気づいた。
彼らが好き勝手にやってられるのは、霞城の後ろ盾があるからだ。戸賀の今回の行動を、彼女が認めるとはとても思えなかった。
「俺、塾があるから・・・」というのが断る言い訳だった。
「ちっ仕方ねえな。じゃあ最初だけ手伝えよ。後でビデオ見せてやるから」
戸賀はハンディカメラを持っていた。床に三脚も置いてある。
そう言われて、菰野はゴクリとつばを飲んだ。家では真面目で通している彼には、『そういう物』に触れる機会はまず無かったのである。
「じゃあ机片付けようぜ」戸賀は淡々と準備を始めた。
時計は間もなく、夜7:30を指そうとしていた。
教室の扉を前にして、るりあはがっくりと項垂れた。
(前に呼び出された時はなんだっけ?・・・あー)
るりあの脳裏に、以前に受けた『いじめ』の様が呼び起こされた。
何かぬるぬるする透明な液体を頭からかけられて、教室中を引きづり回された。『人間モップ』だっけ?
(あの後、一人で教室の掃除するの大変だったな・・・)
しかし、命令に背くわけにもいかない。るりあは項垂れたまま、教室に入った。
いきなりグイッと腕を掴まれた。教室の中は真っ暗で、何が何だか分からない状態で中心まで引っ張ってこられた。
ドンッと突き倒された。床ではなく、机の表面に後頭部をぶつけた。
『痛い』けど、乱暴な扱いはいつもの事だから驚きはしない。とにかく無抵抗でいるしかない・・・気が済むまで我慢して。
どうやら机の上に寝かされたらしい。机は縦一列に2つ並んでるだけで、膝まで乗っかった。
手足はダランと下がった訳だが、その手首と足首とを掴まれた。彼らは縄のような物を取り出した。自分が乗っている机の脚に手首があてがわれ、縄を回される。足首も同様だが、その際に脚を大きく広げられた格好になった。
縛り付けられた事は以前にもある。生ごみ置き場とかに。それ自体は大騒ぎする事じゃないけど・・・
(二人だけ?あとの人達はどこかにいるのかな?)
るりあの心に不安が募ってきた。なんで電気を点けないのか?なんで霞城はいないのか?
そして男子達の様子が違う・・・彼らはいつもへらへらとふざけているのに、今日は押し黙って、ある意味真剣に作業に没頭している。
縛り終えると、戸賀は三脚の準備を始めた。ハンディカメラの向きを熱心に調整している。
るりあの頭は教室の後ろ側に向いている。カメラは黒板を背にして、自分を脚の方から撮る位置に配置された。
(そもそも何でカメラ?『いじめ』の証拠は残したくない筈でしょ!?)
次に驚いた事に、菰野が鞄を手にして「じゃあな」と言った「楽しみにしてろ」と戸賀が返した。
るりあは怖くなってきた・・・一人残った男は、何をしようとしているのか?
身体を起こそうとしても、きつく縛られた戒めが食い込むだけだった。
男が、身動きを封じられた自分に近づく。よろよろとふらふらと・・・顔は見えない。でも、激しい息遣いみたいなのが聞こえる。
『叫び声を上げる』という選択肢を、あまりにいじめられ過ぎて忘れていた。
今、それをしようと思った。だが、男の手が口を塞ぎ、喉を力任せに締めた。
(死ぬ!)と思った。激しい苦しみと恐怖が、るりあを襲う。
「声出すな」その言葉に必死で頷いた。
暴力に怯え、声を出すのも封じられた。るりあはただ、涙を流す事しか出来なくなった。
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