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第四章 仕返し
翌日の1時間目が数学の授業だった。
小テストを最後にやって「後ろから回せ」と教師が指示する。るりあは裏返しにして、前の生徒にほぼ空欄の紙を渡す。
溜息をついてから、のろのろと動き出す。2時間目は体育だ。運動神経も優れないるりあにとっては、これまた苦渋の時間でしかない・・・本当に学校なんて地獄だ。
「どうだった?るりあ」
廊下で声を掛けられた時、るりあは泣き出しそうになった。でも、変に思われるからと必死で抑えた。
「・・・やっぱりダメだった。ごめんね、せっかく教えてくれたのに」
「一日では難しいわよね。続けていきましょうね」
長峰は柔らかい微笑みを向けてくれる。学校でも、昨日の帰り道と同じように。
るりあは飛び上がりたい程嬉しい・・・これもまた、変に思われるから実行しないけど。
だが、背後から不穏な気配が流れ出した。4人の足音と、甘ったるいように呼びかける声。
「るりあ〜ちょっと来てくれる〜」
霞城の声にパブロフの犬の如く反応して、るりあの顔は青ざめてゆく。
俯いて、小さく震える。るりあの瞳に瞳を合わせて、長峰は声を掛けた。
「るりあ、行きたくないんだったら・・・」
ぐわぁっと、2人の間に霞城が頭ごと突っ込んできた。顔は長峰の方へ向ける。
「長峰さん・・・だっけ?関係ない人は口を挟まないでねぇ〜」
笑顔とは言い難い、吊り上がった目に、耳まで裂ける程の唇。美しい顔は台無しだが、威圧感は半端ない。
さすがの長峰も、気圧されて二の句が継げない。
霞城の後ろ頭に遮られ、せっかく話しかけてくれた長峰との間を裂かれた。そう感じた時、るりあは震えながらも行動に出た。実はずっと間から、スカートのポケットに隠し持っていた物を握りしめて。
カチカチカチッと音を鳴らして、るりあはカッターナイフを振りかざした。最初の一振りは空を切った。音に驚いて振り返った、霞城の頬を風圧が撫でる。
(もう一度!)
思い切って振りかぶったるりあの手で、カッターが光を放つ。
「きゃあーーーっ!」
霞城は思わず悲鳴を上げた。るりあは千載一遇の機会を得たと確信した。
ドンッと背中に衝撃が走った。続いて手首を握り潰す程に掴まれた。カッターを落とし、前につんのめって倒れる。
倒れた姿勢で、床のカッターに手を伸ばそうとした。だが、何者かの足がカッターを遠くへと蹴飛ばした。
一連の行動はあまりにも素早く、るりあは何が起こったのか理解も出来ない。そして誰にやられたのかも。
『誰か』の姿を見ようと顔を上げた。だが痛みが走って目を閉じた。
ぺって音がして、唾を浴びせられた。最初に目に入り、次のは頬に当たって顎へと垂れてゆく。
唾を吐いたのは霞城だ。怒りの形相で怒鳴り声を上げる。
「気ぃ狂った真似してんじゃねぇよ!」
彼女は、今の今まで予想もしていなかった。この小汚い奴が、まさか反撃してくる・・・自分に刃向かうなんて。
だから実は相当に驚いた。向けられた刃物が、心底怖かった。未だ心臓がドキドキ言ってる。さっきの悲鳴も恥ずかしい・・・打ち消したくて、逆に怒鳴った。怒りまくった末に、荒々しく立ち去る演出をした。ドカドカと歩き出す霞城に、仲間の3人もくっ付いて行った。
るりあは呆然としていた。顔からは、霞城の唾が垂れていた。
「はい」真っ白いハンカチを差し出す長峰の手を嬉しく思う反面、情けなさが込み上げる。
そして、長峰の背景が目に入った。
るりあは今日の朝からずっと、長峰を後ろから見ていた。周りの席の女子達と言葉を交わし、笑い合っている姿を遠目に見ていた。
今この瞬間、その『周りの女子』が長峰からすーっと離れていく。自分の元にいる彼女を置いて、体育館へ向かって行く。
(このままじゃ・・・自分と同じように)
るりあは首を横に振った。こんな汚い物を拭うのは、自分の手で充分だ。
「いいよ。ハンカチ汚れちゃうよ」
そして、遠くに転がったカッターを睨みつける。
(戦うんだ。戦う・・・あんな物じゃダメだ。武器がいる。もっと強い武器が)
この朝、霞城がるりあにちょっかいを出したのは、ただ単にいじめようと思ったからではなかった。
前日に『戸賀の事件』が話題になった。この際に、霞城は菰野の態度がおかしいと感じた。
「僕は知らないけど、朽木を呼び出すって言ってた」
おどおどと彼は半分嘘をついた。
霞城は母親・・・理事長と物理の白河が、戸賀の事を話していたのを思い出した。母親には、はぐらかされたのだが。
(まあいいか。るりあが知ってんなら、あいつから聞き出せば)
そんな目論見が外れた霞城は、苛立ちを隠しつつ再び母親の元を訪ねた。
無論授業中なのだが、「体調が悪い」と言えば体育を休む口実には十分だ。
色々と聞きたい事はあるが、ついさっきの事件が後を引き、るりあとその友達に苛立ちが募っていた。
「私のクラスの長峰さんって、どうゆう人なの?」
「我が校の教育方針を勉強したいと申し出たそうよ。その為に転入制度を利用してね」
「そんなの引き受ける必要あったの?」
「彼女の学校の校長からもお願いされてね。教育委員会の理事を務めている方なのよ」
娘の真意を探るでも無く、理事長は返答をした。
「だったら、彼女に何か問題が見つかれば、そんなの反故に出来るわよね?」
「ええ、勿論」という母親の言葉に、霞城は心の中でほくそ笑んでいた。
夜が訪れる。その日の夜空は厚い雲に遮られ、僅かな月の光さえ射す事は無かった。
るりあは独り、制服のまま繁華街を歩いていた。夜の街は、各種の店の看板で埋め尽くされているかの様だった。それを斜めに見ながら、るりあは嫌悪した。派手で下品な世界と感じていた。
しかし、るりあは徘徊している訳では無くて、目的地があった。
ネオン街から暗い路地へと入る。無造作に置かれたゴミ袋を避けて、酔っ払い達の声も届かない所まで。
寂びれた雑居ビルに、ボーッとした灯りがともっていた。派手な装飾も無いドアに、『Bar』の文字が読み取れる。
るりあはゴクリとつばを飲み込む。目的地に着いたのに、そこから足が進まなくなった。
何でこんな所に来たのか?・・・あれは子供の頃、小学生の時だった。
(お母さんはどこに行くんだろう?)その疑問が始まりだった。
夜中にアパートから出ていく母の後ろを、そっと追いかけた。振り返って自分に気づく事無く、母はこの路地のあの灯りの中へ入って行った。
見送った後、子供の自分はどうしたか?怖くなって、逃げる様に走り出した。二度と繁華街に足を向けなかった。
だが今、その店の前にいる。何でか?
あの『匂い』だ。当時の母が漂わせていた匂い・・・ほとんど家に居着かない母が残していく匂いは、子供の記憶に刻まれていた。懐かしいとは言えない、ただ刻まれているだけの匂い。一昨日の夜に久しぶりに出くわした。
(あの男が店の中にいる)
どんな素性かなんて、全く分からない。闇から現れて、死体の様に戸賀を運んで行った男・・・絶対に黒、そうとしか思えない男。
窓から店の中が見える・・・ベタベタと変なシールを貼って目隠ししてる間から。まばらな人影が動いている。その中に、男が被っていた帽子を見つけた。
(あんな流行らないダサい帽子、そうそう見かけるもんか!)
ほぼ反射的に身体が動いた。そのまま勢いで、るりあは店のドアを開けた。
店は乱雑で、しかも古めかしい。裸電球が5、6個ぶら下がってるだけで薄暗い。そして煙草の煙と、あの『匂い』で満たされている。
マスターと言うのだろうか?カウンターの向こう側に、落ち窪んだ目の初老の男がいて、来訪者をじろりと見る。学校では汚いと言われる、るりあの制服もここでは眩い存在だ。しかも鞄を携えているのだから、学校帰りの在校生だろう。
(面倒な奴が迷い込んだ)マスターは目を背ける。
るりあも歓迎されていないとは感じた。逃げ出したい気持ちを、必死で抑えて奥へと進んだ。
暗い店内にソファーが・・・近づくと人がいるのが分かる。テーブルにお金が置いてあって、男がいて女がいて、ゴソゴソと動いてる。るりあはぎゅっと目を閉じた。見てはいけない光景だった。そして女の人は、当時の母と同じ位の歳だ。
(・・・お母さんはこんな店で、どんな事をしていたのだろう?)
一組だけではない。幾人かの前を通り過ぎて、ようやく店の奥に辿り着いた。
カウンター席に3人の若い男。内2人はソファが塞がっている為か、カウンターに突っ伏して寝ている。寝ぼけ眼で、
「あっJKだ・・・夢かぁ」などと呟いて、また眠りに入っていく。
黒い帽子にバイザーの様なデカいサングラス。男の容姿は教室で見た時と変わっていなかった。
男の方も黙って睨んでる女子高生が、こないだの奴だと気づいてはいるが・・・マスターと同じく(面倒な奴)と思っていた。
「なんだよ?」結局無言の圧力に負けて口を開いてしまった。
るりあは震える声で、それこそ死にもの狂いで、その一言を口にした。
「私と・・・契約してよ」
店の奥から更に裏手へと廊下が伸びていた。今にも崩れそうな中を10歩くらい歩いて、ベニア板みたいな扉を開くと、一応部屋らしい空間があった。
部屋といってもシングルベット一つがせいぜいの広さで、床に衣類や荷物がバラ撒かれたように置いてある。
男はベットに腰を下ろし、るりあは床の物を除けて座った。傍らにしっかりと学生鞄を抱えていた。
男は部屋でも帽子とサングラスを外さない。余程顔色を探られるのが嫌なのだろう。
「で、なんだっけ?」男は口元に、皮肉っぽい笑みを見せる。
「私の『武器』になって欲しいの。あいつらと戦うために」
「ケンカか?俺はそれ程強くねぇぞ」
「なんでもない奴らなんだよ。一人一人はなんでも無い・・・ただのいじめっ子なんだから」
「『いじめ』か。あの学校らしいな」
るりあはその口ぶりに、男と学校の関係が少しだけ気になった。
「学校で何をしてたの?あんな時間に」
「まさかと思うが、脅迫しようってんじゃないよな?」
男の言葉に、るりあは目を伏せた・・・そういう流れになればいいなぁという考えが、無い事は無かったからだ。
「契約って言ったよなぁ」男がサングラスの下で睨みつける。
「契約には見返りがあるもんなんだぜ」
語尾を強めた言葉に、るりあはドキッとした。心臓の鼓動が、るりあ自身を破壊しそうに響き出した。
「私が持ってる物なんて、私しかない・・・」
その言葉が持つ意味は容易に察することが出来る。男は「へへっ」と皮肉めいた笑いを浮かべる。
しかし、ペタンと座っている女子高生は、青白い顔で瞳をふるふると震わせている。
(無理なんじゃねぇの?)それが正直な感想だった。
どうするか見ていたら、のろのろと、本当にのろのろと制服を脱ぎ始めた・・・それがあんまりのろいんで、眠くなってきた。
(いや、違う!)頭がくらくらし始めたのだ。この感覚を、男はこれまで何度も経験していた。
(くそっこんな時によ!)苦しげに腕を振り上げた。帽子を鷲掴みにして引きづり落とした。
男の突飛な行動に、るりあは戦々恐々とした。落ちた帽子の内側に、隠されたプラスチックケースを見た。
男はガクガクとした両手で、ケースを開く・・・中身は注射器だ。汗がサングラスの下を通って止めどなく流れる。注射器を持つ右手もガクガクと震えている・・・必死な形相で左腕に充てがう。
こんな状態で大丈夫か?と思えるが、針を射す瞬間は不思議と震えが止まった。
注入が済むと、男は深いため息をついた。茶髪の頭を掻き毟りながらベットに倒れこむ。
一部始終を目にしていたるりあは一層青ざめた。今の行為はなんだったのか?
(注射器の薬はなに!?)
不意に男の腕が伸びてきて、るりあの頭を掴んだ。自分の方へ、ベットの中へと引っ張り込もうとしている!
「やっいやー!」
反射的に腕を払い退けた。素早く立ち上がって、扉の方へ行きかけた・・・振り向くと、男はグッタリしたままだった。
(なんだよ、やっぱり無理なんじゃねぇか・・・)
男が消えゆく意識の中で、皮肉っぽく思っていると、ゴソゴソという気配がした。
女子高生が逃げていない。それどころかベットの中に入ってきた・・・背を向けて丸まっている。
るりあは意を決した、とまでは至っていない。心の中に激しい葛藤がある。
(こんなヤバい奴に身を捧げてしまって、本当にいいの?絶対に後悔する・・・なんで?なんでって・・・)
ぎゅっと閉じた瞼の裏に、長い髪の同級生の顔が浮かんだ・・・自分を助けてくれた。勉強を教えてくれた。学校で話しかけてくれた!
(そうだ。なんでだったか思い出した)
男の方も混乱していた。
(こいつは嫌がっている。口では契約なんて言っちゃあいるが・・・)だが、次第に意識と理性が薄らいでいく。
(薬の後はいつもこうだ・・・身体がゆうこと効かねぇ抑えられねぇ)
手が勝手に、小さな身体に触れた。その途端に消えた・・・(ああ、やっと逃げたか・・・)そう思った。
だが再び戻ってきた。そしてもう逃げることはしなかった。
るりあは一度ベットから飛び出した。逃げようとしたのではない・・・鞄で揺れるチャームを外して、手にするためだ。
両手でぎゅっと掴んで胸にあてた。それは手の中で、胸の中で、暖かい淡い光を灯してくれるようだった。
あの夜の月の光を、天使に出会った光を、自分の中に持っているように想わせてくれた。
その後起きたどんな事にも、身体の痛みにも耐えられた。心が強い想いを持ち続けた。
(長峰さんを守る為なんだ!)
目を覚ました。この部屋には窓が無い、と思っていたけれど、実はかなり上に小さいのがあった。
まだ明け方だろうか?朝の光は弱い。るりあはのろのろと動き出した。
散らばった服を集める。チャームは自分の小指に引っかかっていた・・・大切に鞄に付け直す。
揺れるチャームに微笑みかけた。自分の決断は間違っていないと、自分に言い聞かせるように。
ベットへは目を向けたくなかった。寝ている男との事は、忘れてしまいたい行いだとしか思えなかった。
(ともかくここを出よう。一刻も早く)
だがベニア板を押し開けた瞬間、るりあの全身から血の気が引いた。
男の仲間が待ち構えていたのだ。
「じゃあ次は俺達の番ね」というような事を言っている。
るりあは後退る・・・身体中を震わせながら、激しく首を横に振る。あまりの恐怖に声が出ない。こういう事態を、るりあは何よりも恐れていた。こんなダークサイドに身を置いて、酷い目に遭わされるかも知れない。
・・・しかも集団で。
(もう無理、絶対に耐えられない。身体も心も壊れちゃう・・・)
ぼろぼろと流れる涙に視界が乏しくなってゆく。迫り来る男達の、顔も人数も定かではない・・・
「おい、待て。待てって」
ベットの上で男が起き上がっていた。急いでサングラスを掛けて、帽子を探る。パンツは後回しでいいらしい。
「えー俺達に分けてくれねぇの?」仲間が不満気な言葉を漏らす。
「いや、こいつと契約しちまったからよ。お前らにいい思いさせると、俺の仕事が増えるんだよ」
帽子の男は、仲間達を犬を追い払うようにして退出させる。
るりあは部屋の隅っこで、ガタガタ震えながら泣いていた。
「悪かったな」それまでとは180度異なる優しい言い方だった。
涙にくれる瞳を上げて、るりあは首を横に振った。
「いや、夜の事もだ。強引だったな」
「約束・・・守ってくれる?」
小さな女の子のように、泣きながらるりあは尋ねた。その儚げな姿に、男の心も動かされた。
サングラスを外すと、まん丸い目をしている。るりあはちょっと笑ってしまった。
「ああ、やってやるよ」そう言って、彼も普通の笑顔を見せた。
授業が終わると、生徒達は次々に席を立つ。特に学習塾の青いバックを手にした者達は、競い合うように足早だった。
教室に残ったのは掃除当番だけ。彼らは言葉少な目に、業務をこなしていった。
そして机を並べ終えると、長峰はどこかへ向けて歩き出そうとする。
「長峰さん、あの、おはなしが・・・」
清香の言葉は、やはり最後の方が聞き取れない。しかし長峰は立ち止まり、俯いた姿勢で顔を向けた。
言葉を選んでいる為か、なかなか話しを始めない清香に代わって、奈緒が喋る。
「長峰さんの気持ち分かるよ。朽木るりあに同情してるんだよね?でもさ、空気読まないと・・・」
黙っている長峰に、千里も忠告めいた風に付け加える。
「実際、あの子にだって問題あるよ。カッター振り回すなんて危ないよ」
その点に異論はない。るりあはあの後、職員室に呼び出されて、そのまま早退していた。そして今日は、連絡なく学校を休んでいる。
「ずっと元気ないね。長峰さん」
ようやく清香が言葉を発した。長峰は顔を上げた・・・みんなが自分の事を心配してくれている。だから、こうして話しかけてくれる。
「ごめんなさい。るりあの事もそうだけど・・・」
「ひょっとして、戸賀君のこと?倒れた時に居合わせたからって、責任感じる事なんてないよ」
千里が言うと、長峰はまた俯いた。
(・・・本当の事が言えないっていうのは、本当に苦しい)
女子が集っているのに気づいて、タケル達男子も輪に入ってきた。タケルは暗い雰囲気を変えようと試みた。
「大丈夫じゃない?戸賀って1年の時、『奇跡の男』って呼ばれてたじゃん」
彼の話によると、戸賀はもともと頭が悪くDクラスだった。そこでパシリとかに使われていたが、突然成績を上げ、Aクラスに来たのだと言う。
奈緒も当時のことを思い出した。
「戸賀君も、朽木るりあと同じ『特待生』よね。長峰さんみたいな、試験を受けた転入生と違って」
「同じ転入制度だけど、何年かに一度学校側が募ってるのが『特待生』だったよね?」
清香も漠然とした知識は持っていた。
「そうそう、あいつ孤児院育ちでさ。学校に拾われたようなもんだって言われてたよな」
このタケルの話に、長峰は反論した。
「えっ?私、戸賀君のご両親の代理って人に会ったけど」
真剣な瞳で見つめられ、タケルは顔を赤らめた。
「あっ悪い!俺の思い違いかも」
「ちょっと、適当なこと言わないでくれる〜」
千里に詰め寄られ、タケルは苦笑いを浮かべる。他のみんなも笑い、話は何となく終わった。
しかしこの会話から、長峰は考えさせられていた。
(戸賀君も、るりあと同じ。もとは『いじめ』を受ける側だった・・・気持ちが分かるはずなのに。立場が変われば、平気であんな事をしてしまう・・・)
改めて、『いじめ』という物の怖さを知った思いだった。
時間は22:00を回っていた。しかし、学習塾の建物は『まだまだ』と言わんばかりに、こうこうと電気を点けている。
その明かりの中から、青いバックをぶら下げた学生達がぞろぞろと出てきた。
数名が列を成しているが、誰も言葉を交わさず、目を合わせる事もしない。それもその筈で、全員がスマホの画面を凝視しているのだった。
霞城学園3-Aの菰野もまた、塾を出ると同時にスマホでゲームを始めていた。
「おーやっと出てきたか。よ〜しよ〜し」と言うチンピラめいた男の声を、自分とは全く無関係なものとして聞き流していた。
ガッと肩を組まれて、ぎょっとして顔を上げた。黒い帽子とサングラスの男に、やはり心当たりは無かった。
ぐいぐいと引きづられ「なんですか?」と言っても「い〜からい〜から」と取り合わない。
そして周りの学生達は、目を伏せて知らん顔している。それはそうだ、誰もこんなのに関わりたくないに決まっている。
街灯の明るい通学路から連れ去られ、高架橋の下の不法投棄であろう粗大ゴミに囲まれた場所で突き飛ばされた。
男の手を離れて前のめりに倒れた菰野は、そこでやっと知った顔を見た。
るりあは複雑な表情をしていた。睨むような、憤るような・・・でも少し怯えているような。
帽子の男は、逃げ道を塞ぐ位置でドラム缶に腰かけた。まるで三竦みの如く態勢で、暫し無言の時間が流れた。
口火を切ったのは菰野だった。
「俺は悪くない!何もしてないぞ!」
いきなりの潔白発言に、眉をしかめずにいられない。
「みんな霞城に言われてした事だ!あの夜だって、戸賀が勝手にした事だ!」
あの夜の記憶がるりあの脳裡に浮かぶ。手足をきつく縛られている間、どんなに怖かったか。
るりあが瞳を震わせ始めたのを見かねて、帽子の男が割って入った。
「お前さぁこの期に及んで男らしく無さ過ぎねぇ?」
男に詰め寄られると、途端に菰野は勢いを失って、亀のように首を引っ込めた。
「謝っとけ」男の提案はシンプルだった。菰野は承服しかねる様子だ。
「いいから・・・まず謝れって」
今度は語尾を強めてきた。菰野は震え上がると同時に、(それで済まそう)という考えに至った。プライドも何もなく、手をついて土下座する。
「済みませんでした」と形式的に口にしながら。
じっと、るりあはその様を見ていた。10秒20秒と経過する・・・1分を過ぎた頃、るりあはパチパチと瞬きをした。
地面についた菰野の指が、僅かに動いている。その動きに見覚えがあった・・・こいつはいじめの途中でも、手が空くとゲームをやっていた。自分が泣きながら霞城に許しを乞うている間にも、後ろでピコピコやっていたのだった。
カーッと頭に血が登るのを覚えた。
「なにそれ!ゲームやってる真似!?バカにしてんの!!」
「えっ!?いや、これは」菰野は慌てた。だが慌てれば慌てる程、体の震えのように指の動きを止められない。
「ダメだこいつ!全然反省なんかしてない!こんなんじゃ、全っ然気なんか晴れないよ!!」
震えながら叫ぶ、るりあの姿は帽子の男の目にはあまりにも不憫に映っていた。
彼はドラム缶から降りて、ゆっくりと菰野に近づいた。
菰野は、極度の緊張状態を通り過ぎてしまった。るりあは切れまくってる、指は止められない・・・どうしていいか分からず、薄ら笑いを浮かべていた。
帽子の男は、その表情を見てふーっとため息をつく。そして、地面の上で蠢く右の方の手を、自身の手で上から抑え込んだ。それでも指は動き続ける。
「折るか・・・」呟くような一言。
薄ら笑いから一変、菰野の顔面を恐怖が覆った。口元から涎を垂らし、懇願するようにるりあに目を向ける。
・・・るりあの瞳が、輝いた。大っきな口を開いて、いかにも楽しそうに笑った。
「いいね!しばらくゲームも勉強も出来なくなるね!!」
翌朝の登校時刻。たくさんの生徒達に混じって、3-Aの副島と下谷が校門をくぐった。
キョロキョロとした視線はある人物を探している。彼女は別の門まで車で送られてきて、昇降口に現れる筈なのだった。
「今日も休みかねぇ?」副島は呆れたような口ぶりだ。
その言葉を受けて下谷は「休みじゃなくて、さぼりでしょ」と訂正する。
彼女達が探していた人物は、当然ながら霞城 珠瑛琉である。彼女は先日の体育を「体調が悪い」と言ってさぼり、更に早退した。そして翌日も休み。
つまりカッター事件以来、その加害者・被害者の双方が登校していない状態だった訳である。
しかし、それも昨日までのこと。副島達は目ざとく、昇降口に入ったクラスメイトを見つけた。
長峰は、内履きをきちんと揃えて置いて、外履きから履き替える。その隣で、るりあは内履きを放り投げた。2人は何気ない会話をし、笑顔を交わす。
昇降口の外から伸びる人影が、そんな2人に覆い被さった。副島と下谷はニヤニヤと嫌な笑いを浮かべる。
「あなた、あんまりこの人に近づかない方がいいわよ。感染病とか持ってるかもだから」
「それとも、既に感染しちゃった?だったら、仲良く隔離しないとねぇ〜」
すっと長峰は彼女達を真正面に見つめ、不快だという表情を示す。
「この人って有名なのよ、ゲロ女って。転校したてで知らないでしょうから」
詳しく話してあげよう。といった旨の言葉を繋ごうとしたが、副島の指差した先から、るりあは姿を消していた。
るりあは10mくらい離れた廊下で、あるクラスメイトを捕まえていた。
「おはよう、菰野君。どうしたの!?その手!!」
菰野は青ざめて目を背ける。長峰も含め、女子達は(本当だ、包帯巻いてる)と思って遠目に見ていた。
答えない菰野に代わって、るりあが割とわざとらしく大声を出した。
「ひょっとして交通事故とか?可哀想〜痛そう〜・・・ねぇ痛かった?」
最後の言葉に合わせて、色のない瞳で覗き込む。菰野は昨夜の事を思い出し、へなへなと崩れ落ちた。
なんだか妙な雰囲気に、副島も下谷も飲み込まれていった。
「気をつけなきゃダメだよ〜また!同じ目に合わないとも限らないんだからね!!」
「わぁー!もうやめてくれ〜!!」
泣き喚く仲間の姿に、副島と下谷は困惑しきった・・・何が起きているのか理解出来ない。2人はすっかり立ち竦んだ。
立て続けに、るりあは低い声で菰野に脅迫めかした言葉を浴びせる。
「他の人達にも言っといてよね。私達に近づくなってね!」
それから何事も無かったように、長峰の元へ戻ってきた。
「菰野君、大丈夫なの?」
長峰の言葉は、未だ床に這いつくばってる級友に対して、当然の配慮と言えた。
「傷が痛んでるみたい。でも大丈夫、男なんだから一人で保健室くらい行けるよ」
るりあは笑顔で長峰の手を取り、ボー然とし続ける副島と下谷の前を通り過ぎて行った。
注意深く、長峰には気づかれない様にした。るりあの、この2人のいじめっ子を見据える瞳は・・・血のように赤い。
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