1人が本棚に入れています
本棚に追加
第五章 不仕合せ
週明け、月曜日の朝に霞城 珠瑛琉は久しぶりに登校してきた。
出席を取りに来た田山先生と、ほぼ同じタイミングで教室に入る。アクビをしながら席に着き、両隣の女子に堂々と話し掛ける。
「よお〜週末は何してた?」
そんな声が聞こえてくるもんだから、教壇の田山先生としてはイラッとくるのだが・・・まぁ諦めていた。
しかし、返答が聞こえてこない。田山先生のみならず、他の生徒も変に思った。
当然、副島と下谷の2人が霞城を無視する訳が無い。そんな真似したら、女王様がぶち切れるのは目に見えている。
だが、霞城がぶち切れる事は無かった。左右に首を振り、顔をしかめていた。
「どうした?お前ら・・・」
2人共紫色の顔をして、小刻みに震えていた。揃ってお腹と口を、左右の手で抑えている。
ガタンッ!ほぼ同時に2人共立ち上がった。震えはピークに至り、白目を剥く。
「うげぇえええぇ」
これまた揃って、口から嘔吐物を溢れ出させた。その量が凄まじく、ドボドボと流れる様は、土石流を思わせる程だ。
吐きながら、2人は自らの嘔吐物が充満する床に倒れた。腹や喉に手をあて、苦しそうに悶え転げ回る。
両脇の嘔吐物に囲まれた霞城は、身動き一つ出来ない。ただ目を見開いて、冷や汗を流した。
「・・・なにが、どうしたの?」
霞城は知る由も無かった。副島と下谷が週末何をして、その身に何が起きていたのか?
2人はこぞって街へ遊びに出掛けた。そして、同じく2人連れのスーツ姿の男性にナンパされた。
特に金髪の男の方は、なかなかの美青年で、一目見てポーッとなってしまった。カラオケからバーと移動した挙句、おかしな所へと連れ込まれた。そこは何年か前に潰れた地下のクラブだった。中には更に数名の男達が待ち構えていた。恐らくそうゆう趣向のグループなのだろう、揃いも揃ってイケメンばかりだった。
彼らの根城はかつての華やかさを失い、闇だけが支配している。副島と下谷はその闇へと放り込まれたのだ。
ガランとした空間に、ソファとテーブルだけが配置され、電池式の灯りがぼんやりと灯っている。ここに至って、2人はようやく事の重大さに気づいた。ソファで抱き合って震える彼女達の前で、金髪の男はネクタイを荒々しく外す。
「こんな首輪に繋がれて、可哀想なもんだよねぇ社会人は」
はだけた胸に、薔薇が散ってゆくタトゥーがチラ見えする。
「実は君達にお願いがあるんだけど」
甘い言い方だが、絶対の脅迫感を帯びる。ソファの前で跪き、取り出した物を彼女達の前にちらつかせる。それは目薬程の小瓶で、中に液体が入っているのが分かる。コンッとテーブルに置いた。
「明日、学校へ行く前にこれを飲んで欲しいんだ」
「・・・なに?それ」2人は怯えた声で、揃って口にした。
「さあ、なんだろ?僕は知らないんだよね〜まぁ白くてトロトロしてるから、飲むヨーグルトだとでも思ってさ」
(そんなの気持ち悪い!)2人は揃って首を横に振った。
「じゃあ別のお願いをしよう。これを見てくれる?」
スッと後ろに手をやると、控えていたイケメンの一人が彼に数枚の写真を渡した。小瓶と同じように、彼女達の目の前にちらつかせる。
最初は良く見えなかった。明かりが乏しい中に目が慣れていなかった・・・でも、次第にはっきりと見え始めた。
「ひっ!」短く悲鳴をあげた。何枚もの写真を見せられる内に、気が狂いそうになってきた。
写真の中で、半裸の女性達がその白い肌を切り刻まれ、溢れる鮮血に染まっていた。
「僕はね、女性のこういう姿をとても美しいと感じるんだ。君達にもコレクションに加わってもらおうかなって・・・」
バシッ・・・下谷が怖がって振った手が、写真を払い除けた。床に散らばった写真を、彼は悲しそうに見つめていた。
「・・・なにをするんだ」振り向いた瞳は、怒りの色を帯びる。
もはや2人に選択の余地は無い。小瓶を指差して、必死に何度も頷いた。
「そうかぁありがとう」彼に爽やかな微笑みが戻った。
「言っとくけど、教室に君達を見張っている人がいるからね。飲まなかったら直ぐにバレるよ」
そして、とても愉快そうに「その時が楽しみだね」と笑った。
いち早く異様に気づいた長峰は、反射的に立ち上がった。一番前の席から、霞城の元へ飛び出そうとする。
「だめっ!!」長峰の肩を、後ろから田山先生が掴んだ。
騒ぎ出す生徒達へ向け、意外にも先生らしい所を見せる。
「ノロウイルスの可能性があるわ!みんな急いで教室を出て!嘔吐物にも、絶対に触らないように!!」
そう言われても!誰よりも困惑したのは霞城だった。自分の左右、すぐ足元まで嘔吐物は溢れている。
(どうしろってのよ・・・)
「霞城さん!机に乗って!」
その声に助けられた。霞城はイスから机に乗り、前の机に飛び移って難を逃れた。夢中だったので、声の相手は分からず終いだった。ただそれは、教室の騒音の中でも良く通る澄んだ声だった。
生徒達はワーキャー悲鳴を上げ、田山先生は教室備え付けのインターフォンで、負けじと大声を張り上げて職員室へ連絡している。
この騒音の最中、長峰は異様な音を耳にした。バタバタバタ・・・とゆう音。
先生に代わって、他の生徒を廊下へ誘導する役を担う間も音は聞こえ続ける。
それは廊下側の一番後ろの席から聞こえてきていた。
(るりあ?)
そう、そこはるりあの席だ。るりあは廊下に逃げていない、まだイスに座っている。
座ったままの姿勢で、足を動かしているのだ。両足で連続して床を蹴っている・・・それがバタバタバタバタとゆう音の正体だ。
小さな身体を丸め、両手で顔を覆っている。一見すると、この惨状から目を覆っているかのようだった。
床には嘔吐物が広がり、それにまみれた副島と下谷がのたうち回っている。
生徒達からは口々に「汚い!」とか「臭い!」とかゆう言葉が乱れ飛んでいる。
この有り様こそが、るりあの望んだ光景だ。『仕返し』という、血のように真っ赤な思いの産物だ。
両手の奥で、るりあは込み上げてくる笑いを堪えていた。
大笑いしたい!飛び跳ねて叫びたい!そんな欲求を抑えようとして、床を蹴り続けているのだった。
(あははははっ!ゲロ女!ゲロ女!!)
「2名の生徒は救急車で、大学病院へ向かいました。教室の清掃は用務員さんにお願いしてあります」
一通り説明した後、田山先生は理事長の顔色を伺うように上目遣いをした。
教室での喧騒を体験した後だけに、この理事長室はシン・・・と静まり返っていて、空気が張り詰めているみたいに感じるのだった。
「はーっ」と理事長は大きなため息をつく。
「あの、学級閉鎖にしようと思うのですが・・・」
ためらいがちな田山先生の意見に、「仕方ないですね」と言いつつも、理事長は呆れたといった調子で付け加える。
「あなたのクラスは問題が立て続けね」
(・・・私のせいじゃないのに)
神妙な顔をしながらも、心の中ではそう思う。
「いいでしょう、生徒達は帰して・・・ああ、そうだわ」
素早く出口に向かおうとした足を止められて、田山先生は(なんだろう?)と不安気に振り返る。
「中途入学の生徒がいますね?彼女の様子はどうですか?」
「えと・・・長峰 遥さんですか?」
思いついた事を素直に口にしただけなのだが、理事長は眉を吊り上げた。
「それは『転入生』でしょ?そうでは無くて、1年の時に『特待生』が入学しているでしょう!?」
「お、お言葉ですが・・・私、2年生からの副担任でして。詳しい引き継ぎは聞いていないので・・・」
きっと睨みつけられ、口にチャックをする(しまった!変な口答えしちゃった)
「その生徒の家、確か母子家庭だったわね。機会を見て、家庭訪問でもしてきなさい」
(ええー!なんでー!?)
心の中では大声で叫んでしまったが、チャックをしてあったおかげで声にはなっていなかった。もし口にしていたらどうなっていたか・・・と思うとぞぉっとする。理事長室を出て、やっとひと息つけたが、面倒な宿題が残った。
「あ〜あ、困っちゃったなぁ」
『学級閉鎖』が確定すると、生徒達は教室代わりの視聴覚室からわらわらと出てくる。
当事者と学校側にとっては大きな事件だが、他の生徒達にとっては何て事はない。単に思わぬ休日を貰ったといった程度の気持ちだった。わいわいと、この後の予定を喋りながら昇降口を出て行く。
清香達も、一度寮に寄って着替えてから出掛けようと決めていた。その輪から外れて、長峰は制服のまま校門へ向かおうとしている。
「毎日、どこに行ってるの?」
清香は心配そうに声をかけた。
「うん、ちょっと・・・今日は時間あるから、図書館にも行こうかなって」
「そう・・・・・・」聞こえないけど、何か言いながら小さく手を振る。
「いつも通り、夕食前には戻るから。あなた達も遅れないようにね」
長峰も手を振り返して、笑顔で応えた。
校門を出ると、昼日中の往来に人気は少ない。だから、電信柱に身を隠すようにしていても、るりあの姿は直ぐに目に入った。
長峰は別に嘘を言っていない。これから図書館へ向かうつもりだ・・・るりあの勉強の為に。
「こんな所で待っていなくても、教室から一緒に来ればいいのに」
「でもさ、他の同級生の前だとやっぱり・・・」
後ろ向きな、るりあの気持ちを痛々しく想う。それに先日、自分を心配して忠告してくれた同級生の気持ちも分かる。
長峰の心の内は、激しく葛藤していた。
(簡単じゃないんだろうな。これまでの関係を塗り替えることは・・・でも、このままじゃいけない)
小さな曲がり角まで歩くと、るりあが急に足を止めた。
「あっちょっとここで待ってて。家に行って、参考書取ってくるから」
「家にあるの?だったら、るりあの家で勉強しよう」
「えーっダメだよ!うち、狭いアパートで、すっごく汚いんだから!」
「いいから行こう。こっち?」
さっさと歩き出す長峰に、ためらいながら道を示す。るりあはこの時初めて、長峰が『こうと決めたら譲らない』人だという事を知った。
そして当然、クラスメイトの歪んだ関係を見て見ぬ振りが出来る人では無いのであった。
(清香、千里、奈緒、男子達だって悪い人じゃない。るりあを見る目を変えることは出来るはず。『壁』を取り払えれば・・・そう、このクラスで壁を築いている人達。霞城さん達と向き合わなければ、それが唯一の解決策)
ここまで考えを進めた所で、ハタと気づいた。
(あれ?霞城さん・・・『達』って言っても)
副島と下谷は病院、ノロウイルスならば暫くは休むことになるだろう。菰野は酷い怪我をしていた。戸賀は言うに及ばずだ。
(霞城さんの周りの人達が、次々と。まさか、何かが起こってる?)
ふっと隣を歩く、るりあに視線を送った。るりあは長峰の、やや穿った視線に気づきはしない。
「ほんとに汚いんだからね。小学生の頃、でっかい蜘蛛が出てさ。怖くてカップ麺の容器被せたけど、そのままカサカサ動くから、もうどうしようかって」
未だ家の話しを続けている。子供みたいに一生懸命に話す顔を、ちょっと可愛いとすら思った。
長峰は軽く微笑みを浮かべて、るりあの肩に手を乗せた。
「分かった分かった。とにかく行こう」
(るりあに『何か』なんて出来る訳ない。私の思い過しだ)
それが、今現在の長峰の結論だった。
るりあの家は、自分で言う通り、築30年は経とうかという佇まいのアパートだった。看板に『・・・荘』とあるが、風化して読めなくなっていた。
2階へ登る為の、錆びた階段の直ぐ下にある部屋が、るりあの家だった。
るりあは(こんな汚い家を見たら、引くだろうな・・・)と心配しながらも、逆に『家に来てくれた』のが嬉しかった。
小学生の頃、クラスのみんなはお互いの家を行き来していた。家に遊びに行くことは、友達の証のように思えた。
ゲーム機もないお菓子もない自分の家には、誰も来てくれる訳ないと諦めたけれど・・・ずっと胸に押し込んできた憧れが、今叶おうとしている。
なんだか指が震えて、鍵を開けるのにも手間取ってしまう始末だ。
「ほんと、驚かないでね!」
「驚くわけがないでしょ?」
玄関で靴を脱ぎ、入ってすぐは台所。スリッパが無くても、靴下を履いているから大丈夫・・・だが床から顔を上げた時、長峰は驚いてしまった。
「あっ済みません!お邪魔します」
台所の古びたテーブルに、40歳位の女性が座っていた。艶のないバサバサの髪の毛の下で、缶ビールを口にしている。来訪者の挨拶に、何のリアクションもしない。
ぶらっと立ち上がると、痩せた身体をふらつかせながら、奥の部屋に引っ込む。
家に入る時、るりあは自分の持ってる鍵を使った。だから長峰としては、留守なんだと思い込んでいたのだ。
「・・・お母さん?」尋ねると、るりあは笑って答えた。
「もっと若い頃はね、ほとんど家に居なかったんだけど・・・最近は、仕事に行く以外に用事はないみたい」
奥の部屋は2つあって、母親とは別の方で勉強しようというのだが、その間は襖一枚しかない。
長峰は、隣の部屋を気にしてしまう。
「気を遣わなくていいよ。あの人と私は別の世界で生きてるの。だから私が、身体中落書きされてても、ローションまみれで帰ってきても、なぁ〜んにも言わないの」
長峰にとって、るりあの話はとても哀しい物に思えた。しかし、他人の家庭事情にあれこれ口を出す権利はない。
例えば「お父さんは?」なんて訊くことは。きっと、失礼極まりない事なのだ。
るりあの貧しさや哀しさに対し、同情めいた感情を起こすのは・・・失礼であると同時に、自らの思い上がりだ。
『特別視』することは『いじめ』となんら変わらない。恥ずべき行為なのだ。
(だから、今の私がるりあにすべきは)
「さっ勉強しよう」動じない風を心がけて、参考書を開いた。
「・・・はい」
るりあとしては、もう少しお喋りしたかったのだが・・・スイッチが入ってしまったらしいと諦めた。
(やたらに時間を気にしてるな・・・)
勉強の間中ずっと、るりあは感じていた。窓から射す光は既に夕暮れのものとなっていた。
襖の向こうで、ごそごそという気配が動き出した。るりあにとってはいつもの事、母親が仕事に行く為のケバい化粧をしている。そして部屋を出る音、娘に声をかけるでもなく玄関のドアを開け締めする音。
母親が出掛けた後は、部屋に入って掃除やら換気やらをするのが日課だが、今日は後回しだ。そう思ってると、長峰も腕時計をじっと見つめていた。
「ごめん、そろそろ行くね」
時間はまだ午後5時、寮の夕食にはまだまだ余裕があるのに。だがそれは、他に寄る所が無ければの話だった。
「今日も病院に行くの?目が覚めたとしても、面会出来るか分からないのに」
「うん。でも一応ね・・・出来ることなら、本人にだけはしっかりと謝りたいの」
「何度も言うようだけど、責任感じる事なんて無いんだよ」
「ありがとう」瞳を伏せる長峰は、びしびしと勉強を教えてくれている時とは別人のようだ。
それ以上掛けられる言葉も見つからなくて、るりあは淋しい気持ちを抑えて、長峰を見送った。
日課の母の部屋の掃除に取り掛かってはみたものの、心の中にモヤモヤとした気持ちが湧き上がってくる。
(なんで彼女が苦しまなければならないの?あいつのせいで、いつまでも!!)
荒々しく窓から煙草の吸殻を投げ捨てて、床に散らばった衣類を蹴っ飛ばす。
掃除なんかやってられなくなって、自らも家を飛び出す。向かう方向は、病院では無く繁華街だった。
(お母さんと会うかも・・・)一瞬頭を過ぎった。しかし(無視すればいいや!)と決めた。
しかし、るりあと母親が出くわす心配は無かった。何故なら、母親は別の方向に歩いていたからだ。アパートの周りをぐるりと回って、学校へ向かう道筋の路地に潜むようにしていた。
るりあの家の周辺は、住宅がひしめき合い、その間を何本もの小さな路地が縫っている。長峰にとっては初めて入る地域だ、時折立ち止まって、道を確認しつつ慎重に進む必要があった。
そうでなくとも、足取りはおぼつかなかった。病院に向かう時は、どうしても心が重く苦しくなる。目を覚まさないクラスメイトと、自らが犯した行為に胸が締め付けられる。
また足が止まってしまう。胸に手を当てて、深呼吸をしようとした。
その時、狭い路地の死角から手が伸びた。長峰の腕を鷲掴みにして、力任せに引っ張った。
咄嗟のことで何が起きたか分からない。長峰は鞄を落として、身体を暗い路地へと引き込まれた。
必死で手を振りほどき、相手の顔を見てはっとする。それは、つい先程見た顔だった。るりあの母親は目を見開いて、逆に怯えるような表情で長峰を凝視していた。
「あんた何なの?何の目論見があって、るりあに近づいてるの?」
「私は、るりあの友達です」
正直びっくりさせられたし、母親の表情に鬼気迫るものを感じる。それでも、普通に当たり前のことを言うだけだった。
だが、母親は一層怯えて声を荒げた。
「嘘よ!あいつに友達なんか出来る筈が無いって、そう言ってたんだ!!」
「私は嘘なんかつきません!」
はっきりと断言し真っ直ぐに見つめる長峰の瞳は、強い光を放つ。母親はそれを向けられると、瞳を震わせ始めた。
「あの、お母さん・・・」
差し伸べようとする長峰の手を、今度は母親の方が振り払う。髪を振り乱し、逃げるように身を翻す。よろよろと背を向けた、振り返る瞳は震えたままで、路地の奥の闇へと消えて行った。
取り残された長峰は、激しく息をついた。心臓の鼓動が早い・・・やはり動揺は隠せない。腕を引っ張られて、どこかに連れ去られそうになる・・・とても恐ろしい体験だ。それに、自分に向けられたあの表情が忘れられない。
(どうしてあんなに怯えて・・・目論見って何?)
一時の白昼夢のような出来事。しかし、それはやはり現実だった。強く掴まれた腕に痛みが残っている。
路地から元の道に戻ると、鞄が落ちていた。拾い上げる時、白いチャームが揺れた。
るりあには、まだ何か隠された事情があるのかも知れない。自分は何も分かってあげられていない?
(軽はずみに『友達だ』なんて言ってはいけないんだわ・・・)
真夜中の病院は薄気味が悪い。るりあはついつい、隣を歩く男に寄り添ってしまっていた。
男はそんな気持ちに気づいているのだかどうだか、無頓着な様子で歩き続け、そして不意に立ち止まる。
『集中治療室』の扉には、液晶画面を持つ機械が設置されている。男がカードキーをかざすと扉が開いた。
「なんであんたキーを持ってるの?」
怖がってる事を悟られたくない気持ちも手伝って、横柄な態度を取る。
「俺はここの教授の一人と協力関係にあるからな。病院への出入りはある程度自由なんだ」
口元だけで笑う。目は相変わらず、帽子とサングラスで隠している。
「じゃあ、大学病院のどこでも入れるの?」
「いや、さすがに要所はカードの他に暗証番号が必要だ。其々番号が違うらしいし、そこまでは教えられていないな」
「ふぅ〜ん」雑談はさておき、病室内を見回す。
中心に据えられたベットに少年が横たわっていて、ピンポイントで明るい光に照らされている。背景が真っ暗な中、その姿が浮き上がって見えた。
真っ暗と言っても語弊があって、彼の周りの機器類は各々の機能通りにちらちら光りを放っている。一番目につくのは、彼の真後ろの大きな機器。包帯を巻いた頭から延びるコードが繋がっていて、液晶画面に数値とグラフを表している。グラフ上の横に真っ直ぐな線が、常にジグザグに動いている。その下の数値も微細な変動を繰り返す。
近寄ってまじまじと見つめても、その顔が戸賀の物か判別出来なかった。元々細い顔は、今や頬骨が浮き上がり骸骨のようだった。
「これ生きてるんだよね?」
「脳死一歩手前だってよ」
「いつ死ぬの?」直球な質問だ。
「話じゃもういつ死んでもおかしくないんだと。だから、常に見張ってる筈だ」
男はサングラス越しに監視カメラをチラ見する。
「とにかくさ、もう鬱陶しいんだよね。どうにかしちゃってよ、これ」
るりあは吐き捨てるように、ベットの少年を見下ろす。帽子の男はまた、口元で笑った。
「どうにかって、助けられやしないんだぜ。やるとなったら殺すだけだ」
『殺す』という言葉に、少し躊躇いを感じずにはいられなかった。るりあは押し黙った。
「それはお前の友達、あの眼鏡っ子の望みとは逆なんじゃねぇの?いいのか?」
「だからって、このままじゃダメ」
「じゃあやろうぜ。その辺の機械止めちまえば、明日の朝には死体が横たわってるだけだ」
「ダメだよ!!」
思わず大きな声を出した。男が素早く機器に近寄ったからだ。
「それじゃあ、それじゃあ怪我のせいで死んだ事になっちゃう・・・その方法はダメ」
るりあの瞳が震えだした。戸賀の死を知った時の、長峰の泣き叫ぶ姿が頭を過ぎった。
少しの間考えて、決意の表情を表す。
「ここ6階だよね?窓から放り投げよう」
「この部屋、窓ねぇぞ」
「だから目を覚ましてふらふら廊下まで歩いて、勝手に落ちた事にするんだよ」
「ちょっと無理がないか?」
「いいから!でないと・・・」
るりあの言葉を、突然機器が発した音が遮った。
ピーーーーーーーーー!!
戸賀の後ろの大きな機器が、警報のような音を発した。
液晶画面のジグザグの動きが見るだに小さく、乏しくなってゆく。数値がどんどん下がって、1桁に達する。
帽子の男もさすがに面食らった。
(触ってねぇよなぁ・・・)思いながら後ずさる。
るりあは呆然と立ち尽くした。
(この数字が0になったらどうなるの?)
「おおー!来たね来たね!!」
それは笑うような、はしゃぐような声。病室の暗い一角から、突然駆け寄ってきた男の声。
驚いて目を見開いたるりあを完全に無視して、白衣姿の男がベットに飛びついてきた。彼は忙しなく、自身の腕時計を覗き込む。ついつい笑いが込み上げる目をぐっと開いて、時間を確認している。
「さあ〜どうだ?既に新記録は確定しているんだが、どこまで伸びる〜?」
白衣の男は恐らく医師であり、帽子の男が協力している『教授』と呼んだ人物であろう・・・そこまでは察しがつくが。
るりあが何より不思議だったのは、『教授』が全く治療をしようとしていない事だった。患者より、後ろの機器ばかり見ている。
そしてこの妙なテンション・・・完全に浮いている。一人だけ別世界にいっちゃってるかのようだ。
数値が更に下がってゆく。戸賀の身体には何の変化も動きもないが・・・あと数秒後には、終わりが迫っている!
「もうちょっと行け!もうちょっと、頑張れ!頑張れ!」
(『頑張れ』ってゆうのは患者に言う台詞でしょ?なんで機械に呼びかけてんの??)
如何にも愉快そうに液晶画面を見つめる『教授』を見ていると、頭がおかしくなりそうだった。『狂喜』にあてられて。
ピー・・・『0』
終わりの時は、あっけなく訪れた。戸賀の身体は崩れるでも塵になるでも無い。さっきまでと同じくそこにあった。
『もう既に死んでいた』きっとそれが答えなのだろう。
機器が『0』を示した瞬間に、教授は時計を握りしめたまま、ベットに倒れ込んでいた。死体の腹の上で、感極まった如くに肩を震わせている。
「よおし!2年4か月13日と3秒・・・この3秒が大きい!!よくやった〜」
今度はまるで時計を褒めている。この人間の考えている事は、まるで理解出来ない。
しかし、るりあはボーッとしている訳にはいかなかった。戸賀が死んだのなら、尚更先程の計画を実行しなければならない。見たところ教授は一人だ。この人を眠らせてしまえば!
ガッと帽子の男を睨んだ・・・しかし彼は、首を横に振る。るりあの考えを察した上で、無理だと言っている。
「もういい!だったら私がやる!!」
死体を荒々しく掴もうとすると、教授が陽気に話しかけてきた。
「やぁ〜こんばんは。彼の友達かい?お見舞いに来たの?」
(なんだ、この的外れな発言は!!)
るりあは早くもこの男を『変人』と定め、無視する事に決めた。
「楠教授、こいつは友達じゃないっすよ。どっちかっていうと敵ですね」
「じゃあ〜なんで〜?そうか!殺しに来たんだね」
「まあ、そんなとこっすね」
この飄々としたやり取りにも腹が立つ!
死体は重くて、るりあ一人では持ち上げられない。
(死んでまで、こいつは私を苛める!)
必死で抗う、るりあの瞳に涙が浮かぶ。
力任せに引っ張り上げようとして、勢い余って床に尻もちをついた・・・痛くて、悔しくて、遂に泣き出した。
「どうしたの?可哀想に」少しだけ、楠の声のトーンが変わった。
「ダメなんだもん。怪我で死んだら、長峰さんが悲しむんだもん・・・」
そんなるりあに、帽子の男は寄り添う。この子供のような姿こそが『るりあの本当』だ。そう思う。
しかし泣いてる女の子に同情したのは、帽子の男だけでは無かった・・・いや、楠の本心なぞ、本当はどんな物だか知れやしないのだが。
「それは違うよ〜怪我が原因の訳ないじゃ〜ん!バッカだなぁ〜」
『えっ』って顔をすると、楠はるりあにある提案をしてきた。
最終的に、るりあは涙を拭いて「お願いします」と言った。楠は笑顔・・・帽子の男は苦々しく口を歪めた。
最初のコメントを投稿しよう!