第六章 間違い

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第六章 間違い

今から10数年前の事。『霞城学園』は随分と様子が違ったらしい。 不良学生が幅をきかせ、校内は荒れていた。教師達はさじを投げ、授業もままならない・・・近隣の高校からも疎んじられる有様だった。 それが変革を迎えたのは、現在の理事長が就任してからだった。彼女は教鞭を振るい、不良学生を処分していった。休学そして退学へと追い込み、生徒の半数近くがいなくなった。 一部の不良学生達が、これを不服として暴動を起こした・・・しかし理事長は、迷う事なく警察を介入させた。 「そんな訳で、俺達はあっさり少年院行き。それで人生終わっちまったのさ」 帽子の男は皮肉めいた口ぶりだ。 夜は、次第に朝に向かっていた。陽が射すまでの時間、るりあは川沿いの芝生で、彼の昔話しを聞いた。 病院を後にしてからは、彼は珍しく真剣な様子だった。 「で、少年院を出た後覗きに行ってみれば、新しい校舎が建ってた。真面目そうな坊ちゃん、嬢ちゃんの通う学校に生まれ変わってた」 「それっておかしくない?不良学生ばかり通わせてたって事は、学校の経営が良くなかったからでしょ?私立なんだから」 るりあは何となくの知識ではあるが、この話に違和感を覚えた。 「生徒追い出しておいて、校舎の建て替えとか、いい生徒集めるとか。そんな都合の良いことある?」 「そこんとこが、霞城学園の闇だな。恐らくは理事長と、楠教授との関係によるものだろうな」 そして再度、当時の話に戻る。 霞城学園に恨みを抱く男・・・この頃から、顔を隠す為に帽子とでかいサングラスを愛用するようになった。 彼は夜な夜な校門を乗り越えて侵入し、学校を探っていた。しかし成果は上がらず、諦めかけていた頃。 何の気なく校舎の裏手を巡っていたら、飛び出してきた男子生徒とぶつかった。 確かに勢い良くぶつかったけど・・・男子生徒はまるで紙屑の様に、ひらひらと舞ってふわりと地面に落ちた。 「なんだ?」奇妙な感覚を抱きつつ近寄ってみると、少年は虫の息で「助けて」と繰り返していた。 「だが、そこで俺も気を失う事になる・・・首筋を殴られてな。微かな意識の中で見たのは、白河って奴の顔だ」 「えっ!?あの先生にやられたの??弱っ!!」 率直にるりあは声を上げた。帽子の男は苦笑を湛える。 「馬鹿言え。あの女、只モンじゃねぇぞ。音も無く近づいて、一発入れてきやがった・・・目が覚めると校内の一室で、俺は椅子に縛り付けられてた。そこに理事長と、あの楠がいたんだ」 最低限の明かりに抑えた室内には、男を含めた3人と・・・床に横たわる男子生徒がいた。 理事長は半狂乱だった。 「こんな事になるなんて、一体!?」 だが楠は薄笑いを浮かべる。 「なに言ってんの〜?予定通りだよ。だから私はここに赴いてる訳でね」 (話にならない!)と理事長も感じた。 だから次は、捕らえた男を指差す。 「この男は?どう始末をつけるの!?秘密を知られてしまったわ」 「それねぇ〜もう一体死体を増やすのも如何なものかなぁ。処理に倍手間がかかるし、それに」 楠が男を飛び越えて奥の闇に目をやった。その闇に潜んで、もう一人の人物が控えていた。 「こんな雑事に、彼女のような優秀な人材の手を患わせるのも申し訳ない。そこでどうだろう?彼に死体処理係になってもらっては」 楠は自分の閃きにさぞ満足したらしく、愉快気に笑った。 「冗談じゃないわ!どこの馬の骨とも知れない男を引き込もうなんて!」 理事長の憤りは全く理にかなっていると思えるが、楠の笑みを帯びた目に睨みつけられると口をつぐんだ。 「それを見て、俺は面白れぇ〜と思ったんだよ。あの理事長が、楠の前じゃカタ無しだってな」 「だから、あの人の手下になることにしたの?」 「無論それだけじゃあないさ」 彼の話には、まだ続きがあった。 またもや音も無く、闇から白河が現れた。帽子の男が反応する余裕も与えずに、腕に注射針を刺す。 「ぐっ!」小さく悲鳴を上げた。その薬はまるで生き物のように、体内を駆け頭に登ってきた。 そして意識がぼんやりとして・・・痛みも苦しみも無いが、すーっと軽くなってゆく感覚に襲われる。 とてつもない恐怖だった。まるで、身体から魂が抜けてしまう様だ。 必死でもがいた「ふざけるな!!」と叫んだ。ふと見ると、拘束された自らを上から見下ろしていた。 「うわあああああ!!」悲鳴を上げても戻らない!更に上に上がってしまう!! ぶすっと針が刺さる音がした。逆の腕に注射針を打たれたが、魂が抜けかかっていたので感覚は無かった。意識が身体に戻ると、どっと冷や汗が溢れ出た。 男の様子を、終始にやにや見ていた楠は面白そうに言った。 「どうだい?脳を活性化させる薬の副産物だ。後に打ったのは、その免疫となるものだよ」 帽子の男は怒鳴り散らしたい思いだが、言葉が浮かばない。何を言っても負け犬の遠吠えにしかならない。 「言っとくが、最初の薬の効果が消えた訳じゃない。免疫で抑えているだけで、切れるとさっきみたいになるよ」 昔話はこれでおしまいだった。 「だから俺は、定期的に免疫を受け取りに行ってる。命をあいつに握られた状態だな」 諦めたように溜息交じりの男に、るりあは同情した。 「その症状は、未だに起こるの?」 「ああ、急にくる。だから薬は常に持っておかないとならない・・・帽子の裏に隠してな」 るりあに思い当たる光景があった。初めて男の部屋を訪れた、あの夜の出来事。 「あれって薬の影響だったの?」 「まあな。魂が抜けそうになった後は、変に生きてる事を実感したくなるって言うか、肉体の欲望に忠実になるって言うか」 「そうなんだ。てっきりヤバい薬が決まったんだと思ってた」 「・・・やってねぇし。お前は俺をどうゆう男だと思ってんだ?」 彼の言葉に、るりあは子供っぽく笑った。なんだかんだ言っても、身体を許した男だ・・・覚醒剤まみれでなくて安心した。 そんなるりあを、男は可愛いと思っている。そして心配している。 「本当はな、お前を楠には近づけたく無かったんだ」 るりあは彼の、こんなにしんみりとした口調は聞いた事なかった。ここからが、彼が本当に言いたかった話だ。 「俺はあの死んだガキの様子を、お前に見せるだけのつもりだった。『殺す』なんてのも本気じゃなかった」 「うん、私もあの時はああ言ったけど。実際には出来なかったと思う」 「まさか、楠が病室に籠っていたとはな。俺達が侵入してきたのも承知の上で、にまにま見てやがった。ヤバい奴だって分かるだろ?」 「うん・・・」一連の楠の行動には、異様さを感じていた。『変人』だって確かに思った。 「でもさ、あの人に頼るしか無いんだよ。長峰さんの為にはさ」 健気なるりあの言葉に、男は憤りを覚える。 「お前がそこまでしてやる必要があるのか?それに値する程に、あの眼鏡っ子はお前のことを思ってくれるのか?」 るりあは男から目を背けた。 「分かんないよ。あんたになんか、何て言ったって分かんないよ」 ・・・実際どう説明したらいいか分からなかった。長峰がるりあにしてくれたこと。 お揃いのチャームを鞄につけた。勉強を教えてくれた。学校で話しかけてくれた・・・それだけ、それだけだけど。 帽子の男はぷいっと立ち去った。川岸に朝日が射し込み始めた。そろそろ校門が開く時間だ。 時間は朝の5時。寮母に睨まれながらも、るりあは長峰の部屋に飛んで行く。 焦っていた。約束は6時・・・始業時間前に、長峰を連れて病院に行かないと。 誰か他の人から『戸賀の死』を長峰が聞かされたら大変だ。 ドアをノックすると数秒で開いた。勇んで飛び込んで、はっとした。 初めて眼鏡をしていない長峰と顔を合わせた・・・切れ長の澄んだ瞳に吸い込まれそうだ。まだパジャマ姿で、明らかに起き抜け。だというのに、顔も髪も綺麗で見惚れてしまった。 「・・・あっあの(見惚れてる場合じゃない!)落ち着いて聞いて!」 頑張って本来の目的に引き戻す。 「戸賀君が、そのあれで・・・説明をしてくれるって、先生が。えっと病院に行かなきゃなんだけど」 我ながら(これは酷い!)と思った。これで理解出来る人がいるとは、とても思えなかった。 恐る恐る長峰の表情を仰ぎ見ると、にっこりと笑みを浮かべている。 (良かった!さすが長峰さん) 内心ホッとしたるりあの肩に、長峰が手を乗せ、ポンポンと軽く叩いた。 「分かった分かった・・・でも、もうちょっと寝てからね」 くるっと後ろ向いて、ベットに戻って行こうとする。 (えっ?ひょっとして寝ぼけてる?) 長峰の意外な姿を垣間見て、何か得した気分だった。しかし、そうも言ってられない事情がある。 悪いと思ったが、後ろから肩をぐらぐら揺らして起きて貰った。 1時間後。前と同じ病院の会議室に案内された長峰は、神妙な表情で俯く。るりあはその隣で、やっぱり上手く説明出来なかったと悔やんでいた。 白衣の医師が入ってきたので、席を立って挨拶しようとした。しかし、にやけ顔の医師から「そのまま、そのまま」と止められた。 夜に会った時は、そのにやけ顔が薄気味悪く感じたものだが。明るい光の下では、ただの愛嬌ある小柄のおじさんだなぁと、るりあは思った。常ににやけてるせいで年齢不詳だが、顔の皺からしてもアラ50位だろうか。 「学校はどう?今時の女子高生は遊び回るのに忙しくて、勉強どころじゃなかったりするのかな?」 相変わらず的外れな事ばかりを口にする。長峰も返答に窮していた。 「あの先生・・・」るりあは楠が携えたノートパソコンを指差す。 るりあが求めているのは、昨晩の楠の提案だった。『戸賀の死因』を直々に解説してあげるよと言ったのだ。 「ああ、そうそう。あの学生君が死んだのは外的要因ではなくて、内的なものなんだよ」 「でもあの時、確かに大きな音がしました・・・私が戸賀君を倒した時」 長峰はあくまで神妙な趣きで、あくまで自身の責任を追及する構えだった。しかし楠は、その想いを簡単に退ける。 「違うってバカだなぁ。大きな音がしたってことはさぁ、無防備に頭から倒れたって事でしょ?普通人は倒れそうになったらどうする?」 「あっ・・・受け身を取ろうとします」 「でしょ?だからさ、彼は倒れる時点で意識失ってんのよ。これ見てごらん」 パソコン画面に、月夜の教室での出来事が映し出された。 長峰もるりあも一瞬びくっとした。カメラの画像が残っていたなんて、想像だにしていなかった。 「私の優秀で美しい助手が確保してくれていたんだよ。本当に彼女は気が利く、いい奥さんになるよね」 (それって白河先生の事?あの人教師じゃないの??) 2人の頭に?が飛び交う。るりあは更に、白河の裏の顔を聞かされている。 (絶対、いい奥さんは無いでしょ!!) 映像は縛られたるりあが襲われかけた処からだが、楠は余計なシーンはバンバン飛ばしてしまう。そしていよいよ、長峰と戸賀の揉み合う瞬間がきた。 長峰も思い出していた。この時、首を絞められた自分が反撃に出れたのは、戸賀の手が緩んだからだ。そうでなければ、どうなっていたか・・・ まさにその時、倒される一歩手前でストップモーションをかけ、表情が見て取れる程アップにする。 「ほら、見てごらん」 カメラはその瞬間を捕らえていた・・・戸賀の目が、生気を失って白目を剥いた。そのままゆっくりと瞼が閉じた。 「これが証拠。頭を打つ前に、脳が限界を迎えたんだね」 『脳が限界』・・・その言葉を、苦しい息をつく彼の口からも聞いていたのだった。今の今まで、長峰は忘れていた。 「でも、でも私はこの直前にも2回、戸賀君を突き飛ばしています。ビデオにも映っていました」 「あ〜もぅ〜じゃあ、別のを見せよう」 楠が次に示したのは、頭部のレントゲン写真だった。 「これ、あの学生君のものね。どうだいキレイなもんだろう?脳ってのは、こうして頭蓋骨で守られている。もし脳に損傷を受ける程の外傷に見舞われたならば、こうして頭蓋骨が無事な訳が無い。びっしびしにヒビが入ってなきゃおかしいだろ?」 熱中すると前のめりになる長峰が、ここに至って椅子の背にもたれ掛かった。どっと疲れたというように、深く息をつく・・・るりあは、やはり心配で長峰を見守っていた。 「納得した?納得したね?よ〜しようし、私の勝ちだね」 楠は満足気に、一層にやにやする。 だが長峰の胸には、別の疑問が沸き立ち始めていた。 「・・・だとすると、戸賀君の死因は何だったのでしょう?先生はご存じという口ぶりでしたが?」 「ああ、勿論だよ」楠はご満悦状態で、へらへら答える。 「病気ですか?既に先生の元に通っていて・・・『治せない』病気だったのですか?」 この表現に、楠はカチンときた。にやけ笑いを崩し、睨み付ける視線を送ってきた。 「君はホント分かってないよねぇ『治す』とかじゃ無いんだよ。これは研究なんだからね。ここは大学病院で、私は教授だ・・・先生じゃない。研究として脳を観ている。大いなる研究だ!」 「仰っている意味が分かりません」 「だから君には分かりゃしないさ。あの彼だって言ったんだよ、私の研究に賛同してね。『馬鹿にされて生きるより、馬鹿にする方になりたい』ってね。私は彼の人生を変えてやった!賞賛こそされ、責められる謂れは無い!!」 「具体的に教えて下さい・・・」 長峰の瞳に炎が宿る。 「どういった研究なのですか?」 楠の歪んだ目を、長峰の瞳が真っ直ぐに捉えた瞬間、白衣の胸で携帯電話が鳴った。 楠は『はっ』と我に返った。そしてにやけ顔を取り戻す。 「じゃあ終わり。さっさと出ていってくれる〜?」 携帯の着信音はまもなく切れた。 長峰とるりあが会議室を出たタイミングで、別の扉から白河が入室した。自らの携帯を手にしている。 「いやぁ助かったよ。余計なお喋りしてくるよねぇ」 「あの生徒にしてみれば、延長線上にある疑問だったのでしょう。あくまで級友の死を悼んでの事です」 何と説明しようが、楠に長峰の気持ちなど響く訳もない。白河も承知の上だ。 それが証拠に、楠はすぐさま話題を変える。 「ところで次はまだかなぁ。次の検体を差し出して貰わないと。理事長に言っといてくれる?」 「・・・はい、伝えます」 白河が退室しようと歩き出した時、楠は独り言を言った。 「さっきのなんて良いんじゃないかなぁ〜面白い事になる気がするなぁ」 「面白い・・・とは?」 「愉しませて欲しいんだよ。折角手にした脳をフルで使って、パーッとさ」 何をしたいのか、何を考えているのか分からない。こうゆう時のにやけ顔は、本当に不気味だ・・・本音を隠し、白河は平静を装う。 「そうですか。それで?どっちの事を言ってるのですか?」 病院から学校へ向かう道を、朝日が眩しく照らし始めた。 登校時間にはまだ早く、学校の囲いに沿って歩いているのは、2人だけだった。 「なんだか変な先生だったけど、説明はちゃんとしてたよね」 るりあは黙りこくる長峰に、必死で話しかけていた。心の中では、楠への苛立ちが募る。 (まったく、変なことばっか言うから!あてにしたのが間違いだったかな) ふっと、長峰の歩みが止まった。るりあも足を止め、顔を覗き込もうとした。 でも出来なかった。長峰が両手で覆ったから・・・長い髪の下で、小さな顔を隠すようにしている。眼鏡の上から覆った両手の隙間から、涙が零れ落ちた。小さな唇から涙声が溢れる。 「・・・私のせいじゃない・・・私のせいじゃなかった・・・」 るりあは堪らなくなって、長峰の身体を抱いた。あの月夜のように、そして誓いが心に蘇る・・・私が守ってあげる。 「喜んじゃいけないよね?自分のせいじゃなくても、人が亡くなってるんだから・・・わたしは酷い人間だね・・・」 この考え方はいかにも長峰らしい。しかし、10代の少女には重すぎる・・・自らへの呵責だ。 「いいよ!喜んでいいんだよ・・・もうこれ以上、自分を責めないで!」 「・・・よかった・・・よかったぁああああ・・・」 るりあの願いが、ついに長峰の心を解いた。わんわんと涙を流し、るりあの胸に抱きつく。るりあも泣いた・・・色々あった、でもこれで何もかもが正解だったと思えた。 それを裏付けるように、長峰がるりあの胸の中で囁いた。 「ありがとう、るりあ・・・わたしの為に、お医者さんに話してくれて。わたしのことを想ってくれて」 それは、るりあの心を温かい光で満たしてくれる言葉だった。 「お礼に、今日の放課後私の秘密を打ち明けるね!」 泣き止んだ長峰が言った言葉だ。この言葉によって、その日一日るりあはそわそわそわそわして仕方なかった。前の夜から一睡もしていないというのに、全然眠くならない。お腹が空いているのを忘れてしまう。 なが〜い授業が終わると、掃除当番の長峰達を横目で見ながら教室を出る。 約束の場所は女子寮の裏だった。壁に寄りかかってボーッとしていると、目の前の芝生で白い物が飛び跳ねた。 ・・・どうやら疲れ目が限界を迎えて、幻が見えるようだ。そう思って目を擦った。しかし、その白い物は消えるどころか、更に頻繁に飛び跳ね始めた。 「みぃ〜」という声も聞こえた。 「猫だ」そろそろと足音を忍ばせて近づいてみる。 ひょっと逃げはするが、少し先で立ち止まってこっちをじーっと見返してくる。 (野良にしては人間を怖がっていない) しゃがんで見ていたら、猫の方から2、3歩近寄ってきた。 (誰かエサをあげてる人がいるんじゃないかな?)その予想は正解だった。 「るりあお待たせ」そう言う長峰の手に、小さなお皿とミルクと子猫フードがあった。 「ということは、あの子が『私の秘密』なわけだね」 るりあが指差す方を見て、長峰は不満そうに呟いた。 「もう、ミチカってば出てくるの早いんだから」 軽く膨れる様子は、なんだか少女っぽくて微笑ましく思えた。 「ミチカってゆうの?人の名前みたい」 「実は知り合いの名前なの」長峰は何故か頬を赤らめた。 そして「ミチカ〜」と呼んで、ミルクの用意をする。猫は喜んで近づいてきた。 次にスプーン。子猫フードをちょっと乗っけて差し出すと、ぴちゃぴちゃと食べ始めた。 「へぇ〜慣れてるね〜」感心していると、スプーンを手渡された。 おっかなびっくり差し出すと、子猫はるりあのスプーンからも食べ始めた。嬉しいくなって手を伸ばすと、なんと頭を撫でることも出来た。長峰も笑顔で見つめている。 「前の学校でもこんな事があってね。その時は先生達も認めてくれて、教室で世話出来たんだけど」 「う〜ん、うちの学校じゃ難しいだろうね。見つかったら追い出される・・・でもここなら」 見渡したところ、校庭のグラウンドは遠い。ゴミ捨て場と倉庫があるくらい。 「まぁ用務員しか来ないよ。それも足音とかで大きな音させるだろうから、猫は隠れてるよ、きっと」 猫はお腹がいっぱいになって、ミルクを飲み始めた。長峰もミチカの頭を指で撫でる。 「貰ってくれる人がいないか、前の学校の友達に頼んで探してもらってるの。その時の『生き物委員』だった子」 「ふぅ〜ん、前の学校の友達とも連絡取ってるんだね」 るりあはそれも不思議じゃないと思った。長峰さんみたいな、いい人とだったらずっと友達でいたいだろうな・・・ 長峰は少しだけ口をつぐんだ。それから(友達ってゆうのなら、隠し事はいけない)って決心した。 「るりあ、私ね・・・いずれは前の学校に戻るつもりなの」 「えっ・・・」るりあにとっては、思いも寄らない。 「また転校ってこと?」 「微妙にニュアンスは違うんだけどね」 2人は互いに顔を合わせない。どんな顔をしていいのか分からずに、猫を愛でてやり過ごした。 「だからもし、私が居なくなってミチカが残っちゃったら、面倒見て欲しいんだ。お願い出来る?」 「もちろん!こんな可愛い子ほっとけないもん」 「感謝する・・・私も週末には様子見に来るから」 「だったら私ともついでに会えるね!」 わざとはしゃいだように声を上げた。 でも、るりあは心の中で思っていた。 (子猫は私達の絆だ。長峰さんもそう思って、私に打ち明けたんだ。きっと約束を守ってくれるだろう・・・一週間に一度会える。でも、子猫なんてすぐに成長する。1年もしたら自分でエサを探して、野良ネコとして強く生きていくだろう。その時、この絆は消える・・・) るりあも、そして長峰も。淋しい心の内を言葉にすることはしなかった。 るりあの気持ちは爆発しそうだった。 折角長峰との絆を確固たるものに出来たのに、折角、折角・・・(友達が出来たのに!!) 長峰を責める事は出来ない。彼女が強い意志を持っているのを知っている。そこを尊敬をしている。 問題があるのは自分の側だ!自分の環境が、家庭が母親が学校が!中学の数学も解けない頭の悪さが、この友情を阻んでいる!! (だって、私が長峰さんを追って、転校するって方法だってあるはずだもの!) 家に帰ったところで苛立ちが募るだけ。帽子の男にぶちまけたって、何の解決にもならない。 苛立ちと焦燥の中で、るりあの頭を過ぎる言葉があった。 (確かに『人生を変えた』って口走っていた・・・) 振り返ると、るりあの前に大学病院へ向かう道が、真っ直ぐに延びていた。 「やぁ〜良く来たね。ようこそようこそ」いつものにやけ顔で、楠はるりあを椅子に掛けさせた。 「さすが、彼女は仕事が早い」 満足気に鼻歌を唄う楠に、るりあは疑問の目を向ける。 「あの、何言ってるの?」 「あれ?理事長に言われて来たんじゃないの?」楠は手にした注射器を、一旦机に置いた。 るりあはその注射器を目にした。明らかに自分に刺そうとしていた・・・いきなり怖くなった。 「やっぱり帰る」 席を立とうとしたら、後ろから肩を抑えられた・・・但し、振りほどけない程の力ではない。 「じゃあ、どうして来たの?」優しい感じの問いかけだった。 「今朝言ってた、戸賀君の話ってどうゆう事なのかなって思って・・・」 おどおどとした態度が面白くて仕方がないらしく、一層にやける。 「あ〜成程ね。知ってるだろ?彼の成績が格段に伸びたことを。それこそが私の研究の成果と言えるものだ」 「知らない」るりあにとって、戸賀は最初から自分を苛めるグループの一人でしかなかった。 「劣等生から成績優秀な学生へ。高校生にとって、頭脳の変化は全てに影響する。自信を持ち、周りの評価を一変させる・・・それこそ『人生を変える』んだよ。私にとっては研究の一歩程度なんだが、彼の得た物は大きいだろう」 るりあは、自分の発言を無視して語り続ける楠を呆然と見つめていた。 「まだまだ研究の初期だからね、脳への負担は深刻だ。短い人生となってしまったが、それも本望だろう」 楠は何て事ない風に、彼の死を口にする。るりあは昨夜の、時計を褒めていた時の異常なこの男を思い出す。 「・・・2年4か月?」 「そう!これまでの最長が1年5か月だったのに、大きく更新した。私の研究は確実に実を結びつつある!」 愉悦の表情を浮かべる・・・その目は常人の物ではない。 「頭を良くする研究?」 「天才を創るのだ!脳を活性化してね。安心していいよ。大掛かりな手術なんかはしない。延髄から特殊な薬品を注入した上で、外部から微量の電気を流すだけ・・・あとは状況を見て、免疫を投与して活性化し過ぎるのを抑える」 るりあは怯えきった。到底受け入れられる話では無かった。 「次はもっといける・・・私の計算では、4年は保つと出ている」 検体となる人間は、確実に脳死を迎える事は百も承知している。若い命を短い年月で終わらせる罪悪感を、この男は持ち合わせない。 「たったの4年・・・」 るりあも当然の不満を口に出した。しかし、楠はにやけ顔を崩さない。 「う〜ん、どうだろうねぇ?4年という時間をどう考えるか・・・例えば君のこれからの人生はどんなもんだろうね。 実は君のデータを見させて貰った。高校を卒業した後、君は当然働くんだろうけど、家の借金を返すのは容易じゃないだろうねぇ」 瞳が震え始めた。自堕落な母親が膨張し続けた借金の通知が、ずっとアパートのポストを埋め尽くしている。 「となると当然、お母さんと同じ様な仕事をしなければならない・・・それでも10年20年とかかるよねぇ」 ずっと考えないようにしていた。その事実は、心臓を締め付け、胃を鷲掴みにして吐き気を催させる。 「そうやって君は、心も身体もすり減らして、ただただ歳を取ってゆく・・・後に残るのは後悔ばかりだ」 ここで、楠は声を高潮させ両手を広げた。さながら、聖職者が迷える子羊を祝福するかのように。 「だが君は大いなるチャンスを得た!私の研究に賛同してくれる者には、一定の謝礼金を渡すことになっている。ぶっちゃけ口止め料も含むから、まぁ君なんかは見たこともない額だ。それをお母さんにでは無く、君に直接渡すと約束しようじゃないか!」 るりあの顔色に変化が訪れた。楠は落ちかけた獲物を逃すまいと続ける。 「更に君は天才になる!どこでも好きな大学に行けるよ・・・どうだい?4年の価値を理解したかい?」 るりあの瞳が光を帯び始めた・・・ふるふるという震えは、恐怖から来るものでは無くなっていた。 「仲のいい友達がいるんだろう?一緒にサークルに入るのもいいだろう。2人で旅行に行くのもいいだろう・・・そうして、思う存分楽しい時間を過ごした後、4年後に君はこう思うんじゃないかなぁ?」 るりあの中から、その他の感情は消え去っていた。ただただ希望を抱き、夢を想い描くるりあは・・・ 「『ああ、もういつ死んでもいいや』ってね」 ぼろぼろぼろぼろと大粒の涙を流して・・・その言葉を受け入れた。
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