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第七章 繋がり
幼い頃、るりあはいつでも家で独りきりだった。
台所のテーブルの上に、袋のまま食パンが置いてあって、1枚ずつ朝、昼、晩に食べていた。母親は夜中に帰ってきて、るりあが寝ている内には出掛けてる。るりあにとって、母親が存在する証は食パンとあの強い匂いが残っている事だけだった。
ある朝、目覚めても匂いがしなかった。テーブルの上に何も無かった。でも初めてって訳でもない。2〜3日帰らない事はままあった。そうゆう時は、諦めてお腹が鳴るのに任せておくだけだった。
それが一週間経った。るりあはお腹が空いてお腹が空いて・・・
パジャマのまま、母親のスリッパを履いて外に出た。時間は朝5時、薄暗い路地を一生懸命歩いた。
駅の近くに出た。母親に連れられて、病院に行った事がある位の記憶だった。
当然ながら母親の姿は見えない。途方に暮れていると、目の前のお店が開いた。おばちゃんが、よっこらせと看板を出す。美味しそうなお弁当の写真が、るりあの目に飛び込んできた。ついで香りも。
お弁当屋さんには、早朝から買いに来る常連がいるようで、ちらほらと客が入って行く。一人できりもりするおばちゃんは、忙しく働き続けた。それも7時を迎える頃には落ち着いた。
「終わりかねぇ」看板を下げに来たおばちゃんは、その陰で、じっと料理の写真を見続ける女の子に気づいた。
看板をよっこらせと持ち上げると、女の子は悲しそうに俯いた。おばちゃんは店を閉めてから、女の子の元へ戻った。手を握ると凄く冷たい。そして痩せ細っている・・・その手を引いて、店の奥の自宅へ連れて行った。
店の残り物を出してあげた時の、女の子の顔。必死になって涙を流しながら食べる姿に、おばちゃんも泣きそうだった。
(なんて可哀想なことをするんだろう)そう思った。
『るりあちゃん』は毎朝訪ねてくるようになった。おばちゃんは朝ご飯だけじゃなく、おにぎりも包んでくれた。
「学校は?」心配になって聞いてみると、るりあは首を傾げた。
お弁当屋の常連には、小学校の関係者もいた。おばちゃんが代理で手続きをして、1年生として通うことになった。
文房具やランドセルは、おばちゃんの息子が昔〜し昔〜し使ってた物を貰った。
その内に母親は帰ってきていたのだが、るりあの様子に気を払うことは無かった。だから、るりあはずっとお弁当屋に通っていた。腰が痛いおばちゃんに代わって、看板を出したり、ショーケースの掃除をした。
『掃除の仕方』を教えて貰えた事が、るりあが唯一学校に通って良かったと思える事だった。残念ながら、勉強が分からない友達も出来ない・・・るりあにとって、小学校は楽しい場所では無かった。
高学年になって、レジのお手伝いなんかもするようになった頃、おばちゃんがお小遣いをくれた。
るりあは首を横に振ったが、おばちゃんは500円玉を手に握らせた。それで、文房具や衣類を買えるようになった。
でも中学に上がる頃から、おばちゃんは店を開けない日が増えてきた。腰を抑えるおばちゃんが心配で堪らなかった。
ある朝、知らない人達がやって来た。話しに聞くと、おばちゃんの息子夫婦だった。彼らはるりあに冷たい。
「なんでこんな子と関わってんだ」と言われた。
2人きりになると、おばちゃんは「ごめんね」と言った。そして、お店をやめて息子夫婦の元へ行く話をされた。
「今までありがとう」るりあは涙を浮かべて、心からの感謝を伝えた。
こうして、るりあは人生で唯一優しくしてくれた人を失った。
おばちゃんは最後に、知り合いが働くお弁当工場の仕事を紹介してくれた。るりあは歳をごまかして働いた。深夜から明け方まで、お弁当を詰める作業だ。まかないのご飯は出るし、内緒でおにぎりを持って帰ったり出来て、本当に助かる。
週末働きながら、中学に通った。卒業したら毎日シフト入れようと思ってた。
(高校になんか行かない)そう決めていたのに、思いも寄らない事態が起きる。
中学卒業から2か月程過ぎたある朝、仕事疲れで寝ていたら母親に起こされた。正直驚いた。母親と面と向かった記憶が遠すぎる・・・そして大分老けたこの人が、本当に母だろうか?と思った。
パサッと投げつけてきた物は、高校の制服だった。
「これ着て、明日から『霞城学園』ってとこ行きな」
吐き捨てるように言われても、訳が分からない。
「私、高校なんか行きたくない」
「いいから行きな!もう助成金っての貰っちまったんだから!」
母親は再度吐き捨て、部屋の襖をバタンッと閉めた。取り残されて、るりあは困惑した。
その後すぐに母親は出掛けてしまった。るりあは台所で、テーブルの上にばら撒かれた紙を見つけた。家賃の領収書、溜まっていた何か月分かのだ。それに電気代や水道代のも。
そして『霞城学園』の入学案内が置いてあった。あと一枚の紙切れ、そこには『受取書控え』の文字と母親のサインがある。
ぼんやりとした頭で、るりあは何となく理解した。
自分が高校に通う事を条件として、学校からお金を受け取った。それはもう、色んな支払いで使い切ってしまった。
(じゃあもう返せない。逆に返そうとしたら、家賃の滞納で追い出される)
想像だけど、母親は金融会社への返済にも充てているのでは?そんな人達から、お金を取り戻せる訳が無い。
もはや選択肢は無いと、愕然とした。
パンフレットを手にしてみた。開くと、そこにはキレイな校舎外観と内側の写真、そして上品な理事長の顔写真とコメントが記載されていた。
開かれた教育を目指す『転入・特待生制度』を如何にも理想的だと語っている。
けれどるりあは、そんな物に明るい希望を見出せるとは、到底思えなかった。
3年生の夏休み明け、るりあが学校を一週間休んだのには理由がある。
夏休みの間ずっと働いていたお弁当工場から頼まれて、深夜の勤務を続けていたからだった。勿論、このまま学校に行かなくて済むなら、それに越した事は無いと思っていたのも事実なのだが。
ちなみにバイト代は、またまた溜まっていた家賃などで消えていた。それも仕方無いと、もう諦めている。
ところで、今回の休みにはどんな事情があるのか・・・もう半月になる。
長峰にとっては『いづれくる別れ』の話をしたっきりだ。心配を募らせ、田山先生に聞いてみた。
「なんかね体調不良みたい。毎日学校に連絡くるんだけど、自宅からじゃなくて病院から電話してるらしいの」
「入院してるのですね。どこの病院ですか?」
「大学病院よ。あっでも面会はダメなんだって。感染症の疑いもあるとかで」
そういう話では成す術がない。かと言って、何もしないでいる事も性格上出来ない。
考慮の末、長峰が選んだ行動は自宅を訪ねるというものだった。それでも実現までに数日思い悩んだ。るりあの母親に、自分は拒絶されているらしいから。
以前路地裏で見せた、るりあの母親の表情はそれ程までに異様だった。
アパートの前まで来ても、なかなか思い切りがつかないでいた。すると、外から家に戻ってきた母親と遭遇した。
母親はさっさと冷蔵庫からビールを取り出して、テーブルにつく。不機嫌な顔をして、玄関先に立つ長峰に話しかけるでもなく口を開いた。
「入院なんて聞いてない」
低い声で呻いて、ビールを飲む。
「・・・ひょっとして、探しに行ってたのですか?」
質問に対して、遠い虚ろな瞳を漂わす。
「探そうにも宛なんか何もない。私はあいつが、今までどうやって生きてきたのかさえ知らない」
「宜しければ、一緒に病院へ・・・」
しかしビールを飲み続ける相手に、諦めて長峰は歩き出そうとした。
「・・・あいつが中学を卒業していたって、他人から教えられたしね」
その言葉には悲哀が込められているようで、長峰の気持ちを留めた。
「ちょうど今のあんたが立ってる辺りだ、男がいたんだよ。暑くてドア開けて飲んでたからね。サラリーマン風で、妙〜にぺこぺこ頭下げるんだよね。なんか油断させられたってゆうか・・・」
長峰はその人物像に思い当たる節があった。戸賀の両親の代理と言っていた、弁護士の男性と重なる。
「そいつが言うんだよ。お嬢さんを『霞城学園』で受け入れるってね・・・誰だよ、お嬢さんってと思ったけどさ。なんか『特待生制度』がどうしたとか言い出すもんだから、難しい話は分からないって追い返そうとしたんだ」
『転入・特待生制度』は長峰が良く知るところだった。学費が免除される・・・高額な私立学園としては異例な制度。
「入学準備の為に『助成金』を出すとか言い出した。おまけにもう金持ってきてやがった・・・こっちは喉から手が出る程金が欲しいんだ。そんなもんチラつかせられたら、飛びついちまうだろうが」
「えっ?」さすがに違和感を感じて、長峰は声を漏らした。
母親は空になったビールの缶を放り出して、長峰に詰め寄った。
「なあ、あんた頭いいんだろ?教えてくれよ。私は中卒でバカだから分かんないんだよ。これやっぱり、おかしな話かなぁ?おかしいと思うか?」
長峰は口元に手をあてて、眉を八の字にして考えた。考えた結論は・・・
「おかしな話だと思います」
「くそっ!やっぱりか!!また騙された・・・また!世の中どうして、悪い奴ばっかりなんだ!!」
半狂乱でテーブルに拳を叩きつける母親に、慰めの言葉は届きそうになかった。
「あんたは?あんたは、るりあを騙してないの?友達なんて嘘じゃないの!?」
「前にも言ってましたね。誰かがそう言ったって・・・誰なんですか?」
「あんたんとこの教頭だよ!私の働く店で飲んでる時に、『うちの学校に貧乏人の娘がいる』って。『学費も払わないで、のうのうとしてる不愉快な存在』だって・・・」
「まさか、そんな!」思わず大きな声を上げた。
「私はるりあの事だと思ってさぁ怒りを抑えて聞いたんだ。先生共はともかくとして、生徒とはうまくやってるのか気になって。そしたら『友達なんか出来るものか、あんなもの苛められる為にいるような物だ』って。事実『いじめ』を受けてるって」
信じられない、いや信じたくない話だった。気が遠くなってゆく様にすら感じた。
「最後に笑ったよ。『他の生徒の為、そういった意味では存在意義があるかもな』って」
・・・確かに、『いじめ』がどうしても起こるというのなら、誰か一人の犠牲者を用意すれば他の生徒は無事でいられる。私立学園ならば尚の事、保護者からのクレームを避けたいはず。だから、文句を言えない状況の子供を選んで無理矢理に入学させる。貧しくて、学力も及ばない生徒がクラスにいれば、ターゲットにされるのは必定。敢えて、意図的にそれをやっている?
(なんてことなの・・・この学校は、『いじめ』を創ってる)
「話を聞いてから、るりあにただただ申し訳が無くて・・・どんな顔していいのかも分からなくて。ずっと放ったらかしだから、あいつは気づいて無いだろうね。でもさ、今回ばかりは本当に参っちまってるんだよ」
長峰は自らに湧いた昂ぶる気持ちをぐっと抑えて、母親の言葉に耳を傾けた。
今、彼女は心に溜め込んできた想いを吐露しようとしていた。バサバサな髪の下で、肩を震わせて。
「余計なことだった・・・全然あいつの為にならなかった・・・それでも、少しだけほんの少しだけど・・・るりあを高校に通わせてやれたって・・・母親らしいことが出来たって、そう思ってたんだ・・・」
翌日、朝一番で長峰は職員室を訪れた。燃えるような瞳をしている。
田山先生は目をぱちくりさせて「理事長にお話し?」と繰り返した。生徒が直接なんて、まず前例の無い申し出だ。
「じゃあ、私が伝えておくから」
と言っても引き下がる様子が無い。
(困っちゃったな・・・)と心で呟く。
そうこうする内に、先生達が朝礼する時間を迎える。職員室に入ってきた、初老の男が生徒の姿を目に止めた。
「なにをゴタゴタしている?田山先生!」怒鳴りながら近づいてきた。
その男目がけて、長峰は燃える瞳の矛先を変える。
「教頭先生に伺いたい事があります」
決して大声では無いが良く通る声に気圧されて、教頭は立ち竦んだ。
「るりあの母親に言った内容の、真意を聞かせて下さい。お話しによっては問題にすべきと考えています」
一生徒からの突然の戦線布告だった。
「誰だそれは?知らんぞ!訳の分からんことを言うな!!」
教頭は怒鳴り声を上げた。大体の問題は、この恫喝で事は済んだ。しかし、今回の相手は引き下がらない。
「朽木 るりあの母親です。教頭とは学校ではなく『お店』で話した、と言っていました」
それでもピンときていない教頭に、田山先生は小声で耳打ちするように教えた。
「教頭、朽木さんは『夜の社交場』という『お店』で働いています」
「なに!?それではあの時の・・・」
どうやら思い当たる節があるらしい。途端に取り乱して、喚き散らす。
「知らん!知らんぞ、そんな商売女のことなんぞ!」
「しょ・・・やめて下さい!生徒の前でそんな言葉遣いぃ〜」
田山先生も半泣きに陥った。教頭は汗ばんだ顔を振り回し、後退りし始めた。
長峰は更に追求せんとする構えだ。田山先生は、宥めようと必死になる。
「私も今度、朽木さんの家に家庭訪問するつもりだから、その時ちゃんとお話し聞いて来るから!」
「田山先生」
呼びかけたのは、長峰では無い。長峰もまた、声のした方へ振り返り、この隙に教頭は逃げた。
「・・・るりあ」
長らく入院していたとは感じさせない、すっきりとした様子だった。長峰に軽く微笑んでから、副担任に用件を伝える。
「家庭訪問の事なんですけど、お断りします。母が居なくなってしまいました」
結構ショッキングな内容をさらっと言われた。田山先生は笑顔をひきつらせる。
「それはどうゆう・・・」
「なんて言うのでしょうか。『失踪』ですかね。今朝置き手紙があって、『さよなら』と書いてありました」
「えっと、その場合は・・・」
田山先生は書類をひっくり返し始めた。生徒の失踪に関するマニュアルはあるが、保護者の場合は?
忙しそうな先生に会釈して、るりあは長峰の手を取って歩き出す。
職員室を出てすぐに、長峰はるりあの手を握り返した。
「るりあ!お母さんの事って、本当?」
るりあが頷くと、長峰は沈痛な表情を浮かべる。
「私昨日、るりあの家に行ったの。お母さんと話した・・・それが原因かも」
「あっだからかな?昨日の夜、病院から戻ったら珍しく家にいて。待ってたみたい・・・」
それから、るりあは首を横に振る。
「だとしても長峰さんのせいじゃないよ。『何か自分に出来る事があるか?』って聞くから、縁を切ってって言ったの。そうすれば、借金背負わなくて済むからって。実はもう書類も用意してたんだよね、だからサイン貰って『さようなら』・・・私のせいだよ」
せいせいしたといった感じで言う。そんなるりあの手を、長峰は強く掴んだ。
「お母さんは、お母さんはるりあの事を想っていたんだよ!申し訳ないって、母親らしい事したかったって」
「・・・そっかぁ」
るりあも長峰の手を強く握り返した。すぅーっと柔らかい笑顔を見せる。
「ありがとう長峰さん。私の為に、お母さんの気持ちを聞いてくれたんだね」
理事長は青い顔でがっくりと項垂れた。理事長室には、職員室での騒動も届かない・・・別世界で、別の報告を受けたが故だった。
「了解したわ。ありがとう」
精神的に参っていたとしても、気丈に振る舞うのが常だった。
理事長室に現れたのは、唯一学園の闇を共有する相手だ。理事長もまた、彼女を優秀と認めている。
「貴方はその生徒が誰か聞いていないのね?」
「はい、楠教授は面白がってはぐらかすばかりです」
「まったく!何を考えてるのだか、あの・・・」
憤慨した理事長が危うく口を滑らすのを、白河は自らの唇に人差し指を当てる仕草で諌めた。
すっすっと足音を一切立てず、理事長に近づき耳元に口を寄せる。
「この部屋の話声は楠教授に筒抜けです。発言には注意して下さい」
はっと口を塞ぎ、瞳だけで辺りを見回す。怯える理事長に、白河はふっと笑って見せた。
「言いたい事分かります。『変人』ですね」
ひそひそ話すと、理事長も微かに頬をほころばせた。
「但し、あの夜居合わせた2名のどちらかに間違いないようです。自ら大学病院を訪れたそうです」
白河は所定の位置に戻り、口調も抑揚を抑えた報告用に戻す。
「それは、自分から望んで研究対象になったという事?」
「どうでしょうか。もしそうだとしても、どれだけ真実を理解した上で承服したのか、甚だ疑問です」
「私達にも真実は知る由がない・・・言えるのは、また生徒が犠牲になるという事。あの・・・」
白河は再度唇に指を当てた。声には出さずに唇を動かす。
『アクマノケンキュウ』
土曜日の午後、るりあは大変忙しかった。なにせ約束は日曜日なんだから、今日中に準備しないと。
まず向かったのはブティック。駅近くに並ぶ中から、目につく店に飛び込んだ。
ブティックの店員は、小汚い服を着た女子高生に顔をしかめたが、笑顔で本音を隠して接客する。
るりあは「流行ってるやつ」とだけ言って、あとは店員に任せた。試着室の鏡の前で、少しも似合うと思わなかったけど・・・悩んでも仕方がないから。ブランドも値札も見ないで決めた。
(次は携帯!)るりあは駅前を横断して行こうとした。
目前に、チラシ配りをしているお姉さんが見えた。いつものように、目を伏せて通り過ぎようとする。
「ちょっと待って!あなた!」
割と大声で呼び止められたもんだから、驚いて振り返った。
お姉さんはぐるーっと、るりあの周りを一周した。
「酷い髪ねぇ・・・」
そう言われても、るりあは美容室はおろか床屋にすら行った事がない。母親が切ってくれるでも無いから、もっぱら自分でハサミを持ってばつばつ切っていた。後は適当に紐で縛って、邪魔にならなければいい物と思っていた。
「女の子がそんなんじゃ、嫌われちゃうわよ」
るりあはハッとして両手を頭にあてた。くすっと笑うお姉さんが配っていたのが、まさしく美容室のチラシだった。優しく背中を押されるがままに、テクテクと美容室に入っていった。
こんなお洒落なお店に入るのは、気が引けて頬が赤くなる。お姉さんは席まで案内してから、「荷物預かりますね」と言った。そして意味深な笑顔を浮かべる。
「あら、洋服も買ったのね。ひょっとして明日は初デートかな?」
そんな事言われて、るりあは耳まで真っ赤になった。
翌朝、駅前トイレの鏡に映すと新しい服は幾分マシに見えた。
髪型を変えたのが良かったらしい。随分と短くなった・・・別にショートにしたかった訳では無い。切り揃えたらこうなっただけ。
風が吹くと頭がスースーするし、ダボッとしたパンツと長いカーディガンがふわふわと舞う。肩掛けのトートバッグと相まって、抑えるので必死だ。
(これ間違ってないよねぇ・・・)
不安は募るが、待ち合わせ場所に行かなければならない。
遅れちゃいけないってんで、気合いを入れて30分前に着いた。しかし、待ち合わせ相手はその上をいっていた。
長峰 遥は、胸にひだ飾りが付いた袖の膨らんだ白いブラウスに、紺のハイウエストなスカートを合わせていた。白い縁の大きな帽子を手で抑えながら、夏の終わりの風を浴びて立っていた。
「かわいい・・・」と思わず口にした。
面と向かって言われて、長峰は赤くなる。
「やだ、私の服のセンスって古臭いって良く言われるのよ。るりあこそお洒落だね。良く似合ってる」
(良かった・・・)褒められて喜ぶというより、ほっとした(・・・嫌われなくて)
今日の予定はバス移動。なにせ30分前に集まってるから、1本早いのに乗れた。
「でもどうして、湖畔公園に行きたかったの?」
爽やかな風と緑に包まれながら、花畑とその間を流れる透き通った水の美しさに目を見張る。
誘ったのは、るりあの方だった。
「日曜日に遊びに行かない?」って・・・断られたらどうしようかとドキドキものだった。
るりあの目的は、長峰が「うん!」と言ってくれたので叶ったのだが、さてどこに誘うかを考えていなかった。
「私ギリシャ神話が好きで。特に湖での恋物語がずーっと記憶に残ってたんだ」
実際小学生時代のるりあにとって、楽しみと言えば児童図書館で挿絵の多い本を開く事だけだった。だから、思いつきではあったが嘘では無い。湖の畔を歩いてみたいという想いを、ぼんやりと持っていた。
「妖精が美少年に恋をするの。でも想いは届かなくて、妖精はご飯食べれなくなって、やせ細って死んじゃうの。そして声だけが残るんだよ・・・他の人が言った言葉を繰り返すことしか出来ない声だけが」
「エコー、山びこの由来の話ね。聞いたことあるわ」
「それでね、美少年には他に好きな人がいるの。その人はいつも湖の中にいて、彼は見つめるだけだった。実はその人は水に映った自分の姿だった、だから彼も叶わぬ恋に苦しんでいたんだよ」
「ナルキッソス、ナルシストの語源ね。そんな風に繋がっていたの?」
「美少年は水の中に呼びかけるの『愛してる』って。そしたら声だけになった妖精が『愛してる』って返したの。彼はその声を愛しい人が言ってるものだと思って、水に飛び込んで死んでしまう。その後、花になったんだよね」
「水仙の花ね、今は時期外れだけど。どっちも悲恋だね」
「うん、でも美少年は最期に想いが届いたと信じられて幸せだったんじゃないかな。妖精も叶わぬ恋の苦しみから、彼を救ってあげられて満足だった・・・そんな風に思ってたなぁ」
「なるほどね。うん、そう思えてきた」
「この本に綺麗な挿絵が添えられてて、悲しいお話だなんて思えなかったよ」
2人は歩きながら話していた。林の中を進む小道から、景色が大きく開いた。
淡い空色を映す湖が、眩い光を反射させていた。緑の園で煌めく宝物を思わせる光の水面。
「こんな景色だった?」
「ううん、こっちの方が断然綺麗!!」
独りで見ていた本より、2人で観る景色の方が何十倍も美しいって、心から思えた。
湖畔のベンチに座って、優しい風に身を委ねていた。
長峰にせがまれて、神話の話をした。アネモネとか花にまつわる話・・・話すのも聞くのも楽しかった。
一段落したところで、るりあは大切な話を切り出した。
「あのね。私、あのアパートには帰らないつもりなんだ」
「どうして?」長峰の中には、母親が帰るかもしれないという希望めいた想いがあった。
「ほら、お母さんが居なくなったって、借金取りが来るかもだから、怖くて。長峰さんも危ないから、もう立ち寄らないでね」
それは納得出来る話だ。一抹の寂しさは付き纏うけれど。
「どこで暮らすの?」長峰は身を乗り出した。
「取り敢えずは知り合いの家。ダサい帽子のおじさんちに厄介になる」
『おじさん』という表現を、『親戚の叔父さん』と長峰は解釈した。
「高校変わっても、るりあの家知ってるから・・・いつでも会えるって思ってた」
長い髪に小さな横顔が沈んでゆく・・・淋しさを湛えていた。でも、るりあは明るい声で答えた。
「大丈夫だよ。ね?長峰さんの目指す大学教えて!私もそこ受験するからさ」
「えっ?でも・・・」この不安気な反応の理由は明らか過ぎた。
想定済だ!るりあは肩掛けのトートバッグから、受験用の問題集を引っ張り出す。
「いつも持ってるんだ。はい!問題出して」
「じゃあ・・・」控え目に、簡単そうな問題文を読み上げた。すると、るりあは「う〜ん」と考える。
これはポーズだ。実はるりあは、問題集も教科書も既に完全に暗記している。しかも苦労はしていない、一度読んだだけだった。
初めて目にする法則や定理が、いとも簡単に理解出来る・・・それまで頭の中にかかっていた『もや』のような物が晴れて、澄み切っている。知識が嘘みたいに脳に染み込んでいく感覚。そして応用して理解を深める能力。それこそが『天才を創る』という意味だった。
「すごい!すっごく勉強してるのね」
長峰は瞳を輝かせた。
「ううん、前に勉強見て貰ったからだよ。何て言うか勉強の仕方が分かったってゆうか」
あんまり出来過ぎると、変に怪しまれてしまう。だから、時々わざと間違えた。
「ふうっ」長峰は笑顔で問題集を閉じた。
「疲れたね。あっちにカフェがあったよね。行こう」
るりあは問題集をしまおうとして、手を滑らせた・・・これもわざとだった。トートバッグの奥に入ってる物を、さりげなく落っことす為の。
ベンチの上に、銀色の掌サイズの板みたいな物が滑り落ちた。
「あっそうだ、スマホ買ったんだよね」
さり気なさを装って笑顔だが、るりあの心臓は高鳴っていた。
いつ切り出すか、ずっとタイミングを伺っていた・・・数学の問題より、よっぽど難しく思えた。
「番号交換しよう」・・・しかし、実際は全然難しくなんかない。長峰はいとも簡単に、るりあが望む答えを出してくれた。
ほっと胸を撫で下ろして、長峰が自分のスマホを操作するのを見ていた。
「あら?これ、どうするんだったかしら?」結構しばらく、指で画面をスライドし続けている。
「えっと、こうだと思うよ」るりあがポンポンと操作した。
「ごめんなさい。私どうもメカが苦手で・・・」少し顔を赤らめる。
(・・・メカって言う?)心で思いつつも、また長峰の意外な一面が見れたようで嬉しくなった。
今のるりあにとって、スマホの操作なんて訳ない。取説なんて、ちょっと読めば理解出来る。でも迷った。『名前』の登録をしようとして、指が震え出した。すぐ隣の長峰には、自分のスマホ画面が目に入っているだろう。
一度は『なが・・・』と入力しようとした。でも意を決した。途中の文字を消して入力し直す。
『はるか』
ドキドキしながら、長峰に顔を向けた。彼女はニコリと笑ってくれた。
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