第九章 正しさ

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第九章 正しさ

闇の世界を垣間見る経験をしながらも、こうして明るい朝を迎えられた。長峰は心からほっとしていた。教室へ向かう脚が少し震えていた。無事で済んだからいいような物の・・・返す返す、軽はずみな行動だったと反省する。 「長峰さん、ちょっといい?」 呼び止めたのは、田山先生だった。昇降口のすぐ近く、職員室手前の『生徒指導室』へ二人で入った。 「寮母さんから連絡を受けてね。昨日の夜、遅くまで出掛けていたって」 「はい、ご心配をおかけして済みません」 「ううん、いいんだけど・・・何処に行ってたのかなぁって」 口止めをされていた。自分だけの問題では無い。副島と下谷の、怖くて泣いていた顔が思い浮かぶ。 「言えません」 「あっ、えっと誰かに会ってたとか?」 珍しく伏し目がちな長峰に対し、田山先生は探るような言葉で様子を伺うしか無かった。 「信じて頂きたいのは、決して疾しい事はしていないということです」 「ひょっとして何か悩み事とか?先生で良かったら相談に乗るから話してね」 「いえ、そういう訳ではありません」 長峰は嘘をつかない。しかしこれでは、堂々巡りになるばかりだった。田山先生は困り、そしてつい口走ってしまった。 「ああ、困っちゃったなぁ。これじゃあ報告のしようもないし・・・」 長峰が顔を上げた。凄く驚いたという表情をしている。 「報告の為に面談しているのですか?」 「えっ?そ、そういう訳じゃないのよ」 ひきつり笑いを浮かべる頬に、つーっと冷や汗が流れる。その顔に、長峰は全てを見た様に感じた。 「田山先生、先生は以前から『後で』とか『また今度』とか仰いますが、その約束はいつ果たされるのでしょうか?」 沸々と燃え上がり始める瞳に照らされ、田山先生は顔が熱く火照ってくる幻想を抱かされた。 「何の話してるの?」 「るりあの話です。理事長と直接話をさせて下さいってお願いした筈です」 「理事長は、ああほらっ出張中だから。週明けまで不在なの」 「では月曜日で宜しいんですね?」 「あっと、どうかなぁ・・・忙しい方だから。だいたい何のお話をするの?」 「とぼけてるのですか?るりあの話って言ったら、『いじめ』の問題です」 「ええ?そんな大袈裟よぉ『いじめ』なんて・・・霞城さん達だって、そんなつもり無いと思うし」 「私はいじめた側の人の名前は口にしていません。やっぱり気づいてるのですよね?気づいた上で、知らない振りをしているのですね」 「それはだから、えっとえっと・・・」 「あなたに何を相談しろって言うんですか?あなたに何を頼れって言うの?どの口で言ってるの?」 「これでも先生なんだからね!そんな言い方しちゃダメでしょ!」 「・・・私、初めて会いました。あなたみたいな、尊敬出来ない先生」 この言葉は、どおぉぉんと田山先生の胸の奥まで響き渡った。顔から血の気が引いてゆく。 「そんな、そんなこと言わなくてたっていいじゃない!私だって一生懸命やってるのに・・・」 「具体的に言ってみなさい。一生懸命なにしたって言うのよ」 「だって・・・だって・・・」 あくまで冷静に問い詰める長峰の言葉に、田山先生は狼狽の極みに達した。 「だって!私2年からの副担任だもん!1年の時から『いじめ』始まっていて、どうしようも無かったんだもん!!」 我を忘れて叫んだ後、小刻みに身体を震わす田山茉由子を前にして、長峰は深〜く溜息をついた。 「『もん』って何?あんた歳いくつよ。気持ち悪い」 カラカラカラ・・・と静かに職員室の扉が開いた。 ちょうど教員達の朝礼の最中で、皆自分の席で立ち上がっていた。 とぼとぼとした足取りで、田山先生は自分の席に向かう。真っ青な顔をして、一点を見つめながら。 真後ろの席は空席だった。白河先生はいつも朝礼をすっぽかす。ぐっとイスをいっぱいまで引き出して、倒れ込む様に身体を預けた。 起立してる周りの先生達は、呆気に取られた。正面で朝礼を仕切っている教頭も同様だったが、ハタと気づき怒鳴りつけようとした。 だがそれより一瞬早く、田山先生が本気の大声を上げた。 「生徒に怒られた〜!!うわあぁぁぁぁん!!!」 顔を覆うことも忘れて号泣する、若い女性教師に対し、誰もが成す術なく立ち尽くすしか無かった。 3-Aの教室はざわめき始めていた。 「なんで先生こないの?」もう朝礼の時間をとっくに過ぎていた。 「長峰さんも戻ってこないね?田山先生に呼ばれたと思うんだけど・・・」 清香が語尾のはっきりしない証言をしていた時、教室の扉が開いたので、千里も奈緒もそっちに気を取られた。 「なんか、田山が職員室でわんわん泣いてる」 タケル達男子数名が、職員室を偵察に行っていたのだった。 「えー?何があったの?」 「それよか、1時間目の授業も田山先生でしょ?どうなるの?」 教室全体がざわざわしている中、もう一つの事件が勃発した。 後ろ扉が勢いよく開いたかと思うと、霞城が飛び込んできた。すぐそこに座る女子に、いきなり詰め寄る。 「るりあ!お前何しやがった!?」 るりあは興味無さ気な、眠そうな目で霞城を見上げる。 「なにが?」 「副島と下谷だ!医者から許可が出たってのに、今度は登校拒否だと・・・お前の仕業だろ!!」 「ちょっと落ち着いてよ。何言ってんだか分かんない」 るりあの言葉を最後まで聞かずに、霞城は制服の襟を両手で掴んで、るりあの身体を引きづり上げた。 「ふざけんな!あいつらの腹も菰野の指も・・・戸賀のことだって、お前が絡んでんだ!絶対に!!」 ざわついていた教室が、今度は水を打ったように静まり返った。菰野は自分の名前が上がると、頭を抱えて机に突っ伏してしまう。 「だったら、どうするの?」 るりあの生意気な挑発に触れ、霞城は拳を握りしめた。 「いいの?『いじめ』は陰でやらないと成り立たないよ。ただの暴力事件になっちゃうよ」 「うるさい!!」 怒鳴り声が教室中に響き渡った。拳が今にも振り下ろされんとしていた。 「やめて!」 ぴたりと霞城の動きが止まった。それは決して大声ではない・・・良く通る澄んだ声だ。そして何故だか、ついつい彼女の言葉には従ってしまう。 霞城自身、その不可思議が解明出来ない。ただこの事実に不快感が沸き立つ。 「うるさい・・・うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!前から目障りだったんだよなぁ〜」 血走った眼を教壇方向へ向ける。いつの間にか、彼女は教室に戻っていた。 「長峰えぇぇ!!」 真っ直ぐな瞳で、その激情を受け止める。静かに胸の中の炎を滾らせて、長峰 遥は霞城 珠瑛琉と向き合った。 ずかずかと霞城は長峰へ歩み寄る。 その後ろ姿を見送りながら、るりあは机にお尻を乗せた。そして、机の側面に掛けてある学生鞄へと手を伸ばす。鞄の縁で、長峰とお揃いのチャームが揺れる。 鞄を少しだけ開いて、隙間から手を入れる。その中に・・・刃渡り20センチ程のサバイバルナイフが入っている。 霞城は手が届く距離まで詰め寄って、身長差のある長峰を上から睨みつける。 「何でこうなった?何もかもおかしくなった。お前だ、お前が来てからだ・・・お前のせいだ!」 他の生徒達は後づさり始めた。自然と生徒達の輪が出来、その中心で2人は対峙している。 「霞城さん、るりあと話して。るりあを責める前に、自分自身の行いを顧みて」 「はぁ?何言ってんだか分かんないんだけど?」 「るりあが何かしたというなら、私が責任を持って謝らせる。でも先ずはあなたからよ、るりあに謝罪を」 「だからそれが分からないって言ってんだろ?何を謝罪しろってのさ」 「クラスで行われてきた『いじめ』よ」 「え〜?そんなのあったっけ?知らないなぁ〜」 「確かに見たわ。あなたが、るりあに暴言を吐いてゴミを投げつける所を」 「私はゴミ捨ててってお願いしたの。るりあに言ったのだって、全部本当のことだけ・・・臭くて汚いじゃない?」 「・・・あなたは」 長峰は我慢がならなくなってきた。眉間にしわを寄せ、両手をぎゅっと握る。 逆に、その様子に霞城は余裕を感じた。口調がいつもの嘲笑いへと変わる。 「他には何か〜?優等生さん。あんた、ついこの間転入してきたばっかでしょ?何を知ってるってのよ」 「話は聞いているわ」 「るりあからだろ?一方の言うことだけ真に受けて、私を犯人扱いって酷くないですか〜?」 「・・・私が見ていなくても、クラスメイトが・・・」 「じゃあ聞いてみたら〜?本当に、私が。他の誰かじゃなくて、私がいじめてたって言い切れる人いるの??」 霞城が舐め回す様に教室中を見渡す。クラスメイト達は一様に暗い顔をして、俯いてしまった。 長峰は痛い程雰囲気を察した。じっと前だけを見つめて、清香やタケルに目を向けることはしない・・・それは、相手に強要する行為だった。 (誰かに発言を促すことは出来ない。迷惑をかける訳にはいかない・・・) 誰もが無言の教室で、ただ霞城だけが満足気に笑う。 「ねぇ〜人に疑いかけておいて、ただで済ませないでよね?今謝罪すべきなのは、誰でしょうねぇ〜」 ぴくっと眉を動かした。霞城を見つめていた瞳を下へ向ける。そして、この静まり返る空間にただただ哀しみを覚える。 ゆっくりと、長峰は膝をついた。 両膝をついて、身体を前に屈めた姿勢で・・・頭を下げ、両手を胸で組んだ。 彼女の姿を憐れな物だと見下ろして、霞城は悦に至る。 ルールを、るりあはたった今決めた。 (遥が謝罪の言葉を口にしたなら、それを聞き終える前に・・・霞城を殺す) 鞄に突っ込んだ手は、しっかりとナイフの柄を握っていた。 数秒後、長峰 遥の澄んだ声が教室に流れた。それは叫びでも泣き声でもない。ただ願いを込めた響きだった。 「お願い・・・口を閉ざさないで。目を逸らさないで。自分の心に問いかけて・・・勇気を出して」 てっきり謝るものとばかり思っていた霞城は、意外な言葉に面食らった。 「えっええっ?何言ってるの??」 素の言葉が口をついた後、再び教室を見渡した。何故だか僅かばかり、空気が変わったように感じた。 「なっ長峰が正しい!」 男子生徒の声だ。声がした方を振り向くと、彼は青ざめながらも、顔を上げていた。 「はあ〜!?」詰め寄ろうとしたが、間に割って入った男子がいた。 「なんだよ!俺だって、長峰の味方したかったのに!」タケルだった。彼はその男子に噛みつく。 「あっ悪い」彼もタケルの気持ちを何となく聞いていたので、先を越した事を素直に悪いと思った。 「俺だって、俺だって・・・けど言えなかったんだよ!だって俺も調子乗って、るりあにボールぶつけた事あったし!」 タケルは悔しくて叫んだ。 「そうなんだよね・・・」 長峰の後ろから、千里の声がした。 「私も、るりあの制服って皺だらけで、シミだらけだって陰口たたいてた」 「るりあの髪がボサボサで見っともないとか・・・」奈緒が言い、清香は唇だけで何か訴えている。 霞城はこの雰囲気に動揺し、せわしく瞳を泳がせた。クラスメイトの視線が、自らに集まってくる。 「私達も偉そうなことは言えない。霞城さん達のしてた事を、見て見ぬふりしてきたんだから」 運動部の女子達の意見だ。身体の一番大きい、バスケ部キャプテンが代表した。 「るりあが臭いって、霞城達が汚水を掛けたのが原因って知ってたけど、つい」 男子生徒が証言する。霞城はどんどん追い込まれてゆく。 「はあ〜?はあ〜?何言ってる訳?達って言ったよな!?だったら、私が中心って訳じゃないだろ!?」 「いーえ!!」 クラスの誰もが聞いたことの無い、おっきな声がした。全員が振り返った先に、清香がいた。 「私、私一年生の時、足引っ掛けられたり、突き飛ばされたりしてた・・・副島さんや下谷さんにだけど」 また語尾が小さくなってゆく。霞城がイラついて怒鳴った。 「なに言ってんだか聞こえねぇよ!いっつも声が小せぇんだよ、お前は!」 だが清香はひるまなかった。つかつかと前に踏み出し、霞城を後退させる。 「あの人達に、ひそひそと霞城さんがいつも言ってた。『突き飛ばせ』って。私、声は小さいけど耳はいいの!霞城 珠瑛琉さんが、確かにそう言いました!!」 はっきりと言い切った!清香がガッツポーズを見せると、長峰は立ち上がって、彼女にウインクで答えた。 「全部霞城の命令だ!俺も戸賀も、理事長の娘の言うこと聞いた方が得だって思ってたんだ!!」 菰野が叫んだ。相変わらず亀のように首を引っ込めて、それでも勇気を出したのだった。 「ふざけるな・・・ふざけるな・・・」 よろよろと霞城は生徒達の輪から逃げ出す。教室の後ろ扉の前で、るりあと目が合った。 るりあは鞄から手を引き抜き、狼狽しきった霞城を興味なさ気に眺めた。 霞城は目を逸らし、扉に手をかけた。 「待って霞城さん。クラスメイトの声を聞いたでしょ?きちんと、るりあと向き合う時よ」 長峰が一歩一歩と歩み寄る。霞城はありありと不快感を露わにし、苦し紛れに大声を上げた。 「クラスメイトだぁ〜ふざけんなよ!いいか、いいこと教えてやるよ・・・クラスメイトってのは人間同士の話だ!!」 いきり立って、るりあを指差す。 「いいか!こいつは人じゃあ・・・」 次の瞬間、霞城は自分の顔のほんの数センチ横を、イスが通り過ぎてゆくのを目にした。イスはすぐ後ろで大きな音を立てて壁に衝突し、ついで床に落ちて同じく大きな音を立てた。 恐る恐る目で追うと、壁も床も凹んでいた・・・ゾッとした。もしも顔にぶつかっていたならば・・・ イスを投げつけた相手は、眼鏡の奥で燃え滾るような瞳をしていた。 「それ以上言ったら許さない・・・許さない!!」 「き・・・気ぃ狂った真似してんじゃねぇよ・・・」 強気に振る舞って吐き捨てた。しかし、声も身体もガタガタと震えていた。扉を開くのが精一杯だった。逃げるように、倒れ込むように、廊下に出た。壁に身体をずりずり引きずって、一刻も早く教室から遠ざかりたかった。 彼女が立ち去った後の教室から、生徒達の声が盛んに聞こえた。 「ごめんなさい、るりあ」 「るりあごめん!ごめん!」 女子の声も男子の声もした。 タケルはサッカーボールを差し出して、るりあに「ぶつけてくれっ!」と言っていた。 「いや、いーよいーよ。そんなの」 赤くなって断る。女子達が次々に現れるのにも、困り顔を見せる。 「ほんと、いーからいーから」 そんな様子を離れて見て、長峰は溜息混じりに笑った。クラスの中に、自然で明るい笑顔が増えたように感じた。 (・・・でも、これで解決という訳では無い)そう、霞城一人を弾き出して終わりというのは違う。 もっと根本的な問題を提起し、答えを導き出さなければならない。長峰は決意を固める。 (週明けに理事長と面会する、絶対に。そこで全てを明らかにしよう) 同じ時、霞城は廊下の突き当たりまで辿り着いていた。校舎の上下に続く階段を睨んで立ち止まった。3年の教室は最上階なので、上は屋上だけ。その途中に扉が見える。 そこは生徒は立ち入り禁止の機械室だ。扉が僅かに開いて何者かの影が現れる。 「役立たず共・・・」 「済みませんお嬢様。我々は、影で動く事は出来ますが、あのような公然の場で非難を受けては手が出せません」 「ちっ!」舌打ちして、霞城は苦々しい表情をする。 「今日のところは、車を手配しますので家へお帰り下さい」 霞城は苛立ちを必死に抑え、影の勧めに従う事にした。胸の中には、憎い相手の顔が浮かぶ。 (そうだわ週明けにはお母様が戻る。言いつけて、追い出してやる。あの優等生づらを青ざめさせてやるわ) 月曜日の朝、教室で田山先生はレポート用紙の束をめくる。長峰の席を借りて腰を落ち着けて、じっくりと読み進めた。それは生徒達からのメッセージだった・・・このクラスでの『いじめ』の事実を綴る物。 生徒達は皆、自分が目にした事を記し、自分の行ないを記し、そして当事者へのお詫びの文書をしたためていた。 田山 茉由子先生は、自他共に認める嘘泣きの名人だった。しかし、先週の金曜に職員室で大泣きして以来、そのスキルを失っていた。 今は、正直な温かい涙が瞳に浮かび次々に溢れ出してしまう。 「先生大丈夫?」 清香に声を掛けられ、うんうんと唇を噛んで頷いた。 「田山先生」長峰は先生に対して、深々と頭を下げた。 「みんなの想いを理事長に見て頂きたいのです。代表として、私を面会させて下さい」 「はい・・・分かりました。でも長峰さん、お願い!私も一緒に・・・私、頼りない先生だろうけど、でも頑張るから」 涙ながらに懇願する田山先生に、長峰は柔らかい笑顔を見せた。 「お願いします。田山先生」 田山先生と長峰が理事長室を訪ねた時、室内に霞城 珠瑛琉が来ていた。 「隣室へ」そう促されて、渋々引き下がり扉にくっついて聞き耳を立てた。 珠瑛琉は不機嫌だった。お母様が何故か話を聞いてくれない・・・長峰を退学にしないと言う。 「言った筈よ、長峰 遥には特別な事情があると」 「でも、理由があれば退学させるって。彼女、私に罪をなすりつけたのよ『いじめ』したって!」 理事長は黙った。あの時とは状況が変わってる・・・長峰は『楠の研究』の対象者の可能性がある。だとすれば、勝手な判断は許されない。 勿論、娘に打ち明ける訳も無い。 「彼女、イスを投げたわ!危なくぶつかるところ・・・あと寮の裏で、こっそり猫飼ってるのよ!」 「黙りなさい!」娘を黙らせる為に、大きな声を出すしか無かった。 びっくりして立ち竦む娘を目の当たりにして、後悔した。そして、優しく抱き寄せた。 「ごめんなさい珠瑛琉。今は疲れているの。それに、ちょうどその生徒が面会を求めてるって言うものだから、頭を痛めているの」 「えっ・・・」何の話をしに来るのかは明確だった。会って欲しくなかった。 しかし、母は長峰との面会を承諾してしまう。珠瑛琉にとって、何もかもが面白くなかった。 「おや、珍しいね。親子ゲンカとは」 楠教授は、いかにも面白いという顔で、研究室内の受信機に耳を寄せる。 自分の診断をそっちのけにされているのに、るりあも理事長室での出来事に興味深々で耳を傾けていた。 大学病院内に、楠教授は専用の部屋を有している。中には脳を診る為の診察台とパソコンの他に、彼個人の研究書・参考書、更には用途不明の薬品の瓶が所狭しと並んでいる。 るりあは週末から入院して検査を行なって、月曜の朝をこの研究室で迎えた。 「常に盗聴して、理事長を監視しているの?」 「いや別に、たまに揉めたりするのが面白くて聴いてるだけさ。理事長ってヒステリーだろ?」 にやけ顔に対し、(まぁ確かに・・・)とるりあも頷く。それから一人呟く。 「やっぱり、あの秘密を知ってたか」 「ん?どうかした??」 楠がにやけ顔を向けてきた。 「別に。ああそうだ、私の脳ってどんな状態なの?」るりあはパソコンに視線の先を変える。 「いやぁ見てもしょうがないよ」 確かにCT画像を見せられても、脳の一部が膨らんでるっぽいと思うだけだ。 「他の人のを見せてよ。比べてみなきゃ分かんない・・・戸賀のとか」 僅かに楠のにやけ顔がヒクついた。 「ダメだよ。他の患者の物は見せられない。個人情報だからね」 「個人情報?『故人』でしょ。いいじゃない、今までの人全部死んでるんだからさ」 「あはははっ!面白い!!」 るりあの『個人』と『故人』の引っ掛けが本気でツボに入ったらしく楠は笑い続けた・・・本当に変な人だ。 呆れて溜息をつく。すると盗聴器から、聞き慣れた声が流れてきた。 「みんなが自主的に書いたものです。誰もが、心の内では『いじめ』に不快感や罪悪感を抱いていた証しです」 長峰の凛とした声と眼差しは、理事長相手でも揺らぐ事はない。 反対に理事長はわなわなと震えて、苛立ちを露わにする。バサッと紙の束を机に投げつけた。 「示し合わせてこんな物を書いて・・・珠瑛琉一人を悪者にして、どう言うつもりなの!?」 「それは違います。みんなに誰か一人を責める意図はありません。事実を認識するために必要だったのです」 「何の事実だと?」 長峰はあくまで冷静な瞳でいた。静かに理事長の目を見て、視線の矢を放つ。 「この学園で行われている『特待生』制度を問題視します。朽木 るりあもまた特待生です・・・結果として、彼女は『いじめ』の対象となりました。 この制度は、明らかにクラスメイトと馴染めない生徒を無理に入学させ『いじめ』の鉾先を向けさせる仕組みではないですか?」 理事長は返す言葉を失った。 「『いじめ』は必ず起こる。そう必然悪と捉えて、誰か一人の犠牲者を用意する。朽木さんの様に、社会的に立場の弱い人の子供ならば・・・保護者に力が無ければ『問題』とならない。『問題』にならない相手ならばいいと切り捨てる」 その言葉と瞳はあまりにも鋭い。理事長は背筋に悪寒が走るのを感じた。 「私が許せないのは、諦めていることです。『いじめ』を認めて、諦めて、解決する為の取り組みを怠る・・・」 理事長は反論がしたかった。それは違うと、『特待生制度』は元々、あの男が発案し強要されたものだと。 「この学園の『対策』は最悪です」 田山先生は震えながら聞いていた。長峰の言葉が刺さって、泣き崩れそうになる身体を必死に支えていた。 暫しの沈黙の後、理事長は絞り出す様にして言葉を発した。 「・・・『必然悪』と言いましたね?優秀な人物を創り、社会に貢献出来るならば・・・それは認められる事だと思いませんか?」 質問の意図が不明瞭だった。長峰は軽く首を傾げる。この一瞬の反応が、理事長の中のある疑念を吹き飛ばした。 (この娘ではない) 「長峰 遥さん、あなたの気持ちは分かりました。しかし、態度には問題があると言わざるを得ません」 田山先生は「えっ」と顔を上げる。長峰は静かに瞳を閉じる。 「追って処分を伝えます。寮で謹慎していなさい。外出も禁止します」 「はい・・・」深々とお辞儀をして、長峰は退出してゆく。淡々と、不平不満を一切態度に顕さずに。 田山先生は残った。理事長に意見する為だ。 「処分なんて、そんな!長峰さんは正しい事をしようとしてるのに!」 どっと疲れたという様子で、理事長はソファ席に腰を下ろした。田山先生のことは、溜息混じりに軽くあしらう。 「いいのです。彼女はここを去っても『風架け橋』に帰るだけ。元々うちの生徒では無い、留学生の様なものです」 (そんな話聞いてない・・・そっか私は生徒からだけじゃなく、学校からもあてにされて無いんだなぁ・・・) 失意のまま、田山先生も退出した。残った理事長は、頭痛薬を求めて隣室へ入った。いつの間にか、そこにいた筈の珠瑛琉が姿を消していた。 スマホが光った。清香が動画を転送してきたのだった。 『なんか変なのがみんなに流れてきたの。これ霞城さんみたいなんだけど』 動画の中の霞城は何だかふらふらとして、学校の外へと歩き出している。 両手で、小さな段ボール箱を持って。 長峰は寮で勉強をしていた。授業中の気持ちだから、制服を着がえずにいた。 「えっ」と小さく呟いて、寮の部屋から飛び出す。寮母が見張ってるから、玄関ではなく窓から。 女子寮の裏で、きょろきょろと見回す。慌てた様子で呼びかける。 「ミチカ?ミチカ!」 スカートが汚れるのも構わずに、地面に這いつくばって探した。でも、白い小さな姿を見つけられない。 さっきの動画。霞城が持つ段ボールから、一瞬白い影が飛び出そうとしているのが見えた。子猫の耳と手が、容赦なく箱に押し込められた。 再びスマホを取り出した。動画は続いている・・・霞城は見慣れた景色の中、図書館へ向かう橋を渡っている。 橋の中ほどで立ち止まった。じっと思いつめた様に川を見つめている。すっと両手が伸びた。橋の欄干を越え、川の上空へ段ボール箱が差し出された。 「ああ、ああああああ・・・」 長峰はスマホを握りしめたまま、悲壮な声を上げた。眼鏡の奥で瞳が揺れる。 段ボール箱は静かに落下していった。
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