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第一章 転入生
夏休みの学校は、薄気味が悪い程にシン・・・としている。
(普段の騒がしさが嘘みたいだなぁ)
そう思いながら、田山 茉由子先生は廊下を歩いていた。新学期は明日から、今日はそれを前にして、教員が打ち合わせの為に登校していた。
「なんだろ?私だけ呼び出しなんて」
向かう先は『理事長室』とにかく、あの人は苦手。新任2年目の田山先生としては、一人で面会するのはプレッシャーが重い。
ふか〜く深呼吸してから、『理事長室』に入った。するといきなり用件を切り出され、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「転入生!?なんで!」
『理事長』とネームプレートのある、重々しい机にかけた婦人が、上目遣いに若い先生を見る。この『ジロリ』とした視線が苦手なのだった。
「・・・ですか?すみません」
恐縮して赤面する田山先生に、理事長の後ろに立つ教頭も、呆れたという顔をしている。
「話しをきちんと聞きなさい。これだから若い先生は」
そう言いながら、教頭は田山先生の首から下をジロジロ眺める。
本日の先生の服装は、ノースリーブに膝上のスカート、全体タイトで身体のラインが浮き出る。
(夏だし、まだ生徒いないし)そんな心の緩さがさせた、若い女の子的ファッションだ。
(だからと言って、ジロジロ見るのはセクハラでは?)
この初老の男の視線もまた、田山先生は違う意味で苦手だった。
説明をするのは、教頭の役目だ・・・しかし、視線が気になって話しが入ってこない。
かいつまんで言うと、この学校が推奨する『転入制度』を利用して志望してきた生徒がいる。
その制度とは、学年の途中からでも生徒を広く受け入れ、更に学費の免除も盛り込むという制度だった。
件の生徒は、転入試験を優秀な成績でパスしたので、2学期から当校へ通うことになった。以上である。
「もういいですよ。行きなさい」
話しが終わってもまごまごしている田山先生に、理事長はきつく言った。そして、田山先生がそそくさと出て行った後で、教頭に苦言を呈する。
「大丈夫なの彼女。なんであの先生なの?」
「はあ、なにせ3-Aの担任は入院してまして。彼女が副担任です」
「なんで3-Aなの?別のクラスでもいいんじゃないの?」
「単純に成績です。試験が校内トップの成績ですから、Aクラスでないと授業が成り立ちません」
理事長は頭が痛い・・・という仕草をする。
「仕方ありません。風架け橋高校の校長は教育委員会の理事をしていますし、無碍には出来ない相手です」
「あの『転入制度』をまともに利用してくる生徒がいるなんて、想定外だわ」
職員室に戻ってきた田山先生は、傍目に分かり易い程がっくりと項垂れている。
ショートカットの前髪をわざと顔に被らせ、時々かき上げる。そして周りの先生達の会話が途切れたタイミングで、
「はあ〜困っちゃったなぁ」と溜息交じりの声を出す。
こういう意識的な『かまってちゃん』な性質は学生時代からで、教師になっても全く抜ける気配がない。
なにせ若くて可愛いらしい女の子先生が、そんな態度を取るもんだから、向かいの男性教師としては声を掛けずにはいられない。
「あっ聞いて頂けます?実はうちのクラスに『転入生』が来るらしいんです」
その話題には、隣の席のおばさん先生も食いついてきた。
「そんな事ある?3年の2学期に転校してくるなんて・・・訳ありじゃない?」
「やっぱりそうですかねぇ」
大きな瞳を潤ませてへたり込む田山先生は、小動物さながらだ。
男性(特に年上)とおばさんには受けがいい。しかし、彼女が話し出した途端に、真後ろの席の女性教師はその場を去って行った。
「普通に考えると、親の都合で転校せざるを得なくなった。とかかな?」
向かいの男性教師は、もっともらしい事を言ってみた。
「・・・寮に入るそうです。実家もそんなには遠くないみたいです」
「じゃあやっぱり前の学校にいられない事情があるのよ。男子?」
「女子です」
「なら暴力沙汰の可能性ほ低いかしら?しかもAクラスだから、成績はいいのよね?」
「・・・ですね(聞いてなかった!言われてみればそうか)」
「もう『あれ』でしょ。可哀想に、逃げてきたのね」
おばさん先生の言葉に、田山先生はピンとくる。というか、最初っから思っていた。またへたり込む。
「大変だね。担任の先生が休んでる時に」男性教師の慰めに、田山先生はしかし苛立つ。
(そうなのよ!大体担任が『胃潰瘍』になったのだって、理事長の過度なプレッシャーのせいでしょ!?今の3-Aには・・・あ〜あ、私も『胃潰瘍』になりそう。いや、むしろなりたい)
本日の業務は終了している。職員室の先生達は順々に帰宅して行く。話しを聞いてくれていた2人も席を立った。田山先生もまた、帰り仕度を始めた。
しかし、心の中は穏やかではない。明日から来るという生徒はどんな子だろうか?
(転校してきたって、なかなか馴染めるものじゃない。前の学校で『あれ』なら尚更。きっと友達付き合いが苦手ね・・・と言うことは、同じ事が繰り返されるだけ)
田山先生は「困っちゃったなぁ」と口走る。今度は誰も聞いてくれていないのに。
(やだなぁ。うちのクラスには、もう既に・・・1人だって気が滅入るのにな)
翌日、良く晴れた朝に始業式は執り行われた。終わってから再び『理事長室』を訪れた田山先生は目を丸くした。
その生徒は、あの理事長に対し真っ直ぐな瞳を向け、物怖じする事もなかった。
「この度は、私のわがままをお聞き入れ頂き、本当にありがとうございます。
『霞城学園』の制度を知り、教育の新たな可能性を感じました。私も教員を目指している者として、目からウロコの落ちる想いです」
昨日あれだけ鬱陶しがっていた理事長でさえ、この生徒の様子に頬を緩ませる程だった。
「そうです。我が校は開かれた教育を目指しているのです。良く勉強されていますね」
そして、今日はまあ肌の露出が少なくなった若い先生を呼び寄せ、新しい転入生を託した。
「初めまして、田山 茉由子です。3-Aの副担任です」
「宜しくお願いします。長峰 遥です」
教室へと向かう道すがら、なにせ田山先生は『見た目が大事』な人だから、この生徒のルックスばかりが気になってた。
(すらっとしてるなぁ。背はそれ程高くないけど、スタイルいい。長い黒髪も綺麗・・・小顔で、瞳もキリッとして。
でもコンタクトにしないのかしら?女子校だったから、気にしなかったのかな。うちの学校で何番目位だろ?)
田山先生の評価では、この学校一の美少女は自分のクラスにいる。
(・・・でも彼女はなぁ・・・)
その美少女の普段の態度が頭をかすめ、先生は眉を寄せた。
教室の前に立つと、中からの声が聞こえてくる。不意に、横に並ぶ生徒が胸に手をやった。田山先生はそれに気づいて、
「大丈夫?緊張するよね?」と声を掛けた。
「いえ・・・でも男子がいるというのは、新鮮というか経験が無くて」
「ああ・・・(うちの男子大丈夫かな?余計な心配増えたかも)困った事があったら、なんでも言ってね」
「はい、ありがとうございます。田山先生」
微笑む彼女に、先生は心を掴まれた。
(こんな素直な反応久しぶり・・・いい子だなぁ)
性格の良さも加味すれば、断然長峰さんの方が上だ。田山先生はそう思いながら、教室へと『転入生』を誘った。
夏の午後の強い日差しが、とある高校の体育館の窓から眩しく射し込んでいた。
まだ学校は夏休み中、部活を終えた女生徒達が後片付けを済まして、帰り仕度を整えている。
バスケットゴールの下に、忘れられたボールが転がっていた。それを、制服姿の背の高い女生徒が拾い上げた。
部活の女生徒達は体操着だ。彼女達は、背の高い女生徒に気づいて慌てた。
「おはようございます!済みません先輩、すぐ片付けます!!」
彼女達は謝りながらも笑顔だった。引退した先輩に会えて嬉しかったのだ。
「いーよ、あと片しとくから」
背の高い彼女の後ろに、もう一人制服を着た女生徒の姿があった。その人はバスケ部のOGではなかった。
後輩達は、先輩2人の邪魔をしてはいけないと判断し、元気に挨拶をして体育館を後にした。
こうして、広い体育館に制服の2人だけが残った。言葉を交わさず、視線を合わせないままで。
不意に、背の高い子がバスケットゴール目がけてボールを投げた。ガンッ!て音がして、ボールはゴールに弾かれて飛んだ。ボールは狙い澄ましたかの様に、もう一人の長い黒髪の眼鏡をかけた子の前で、床にバウンドした。
彼女はしっかりとボールを両手で受け、続けてゴールへと放つ。彼女の方が遠かったが、見事にゴールに突き刺さった。
ゴールした後のボールは転々と跳ねてゆく。先に口を開いたのは、ゴールを決めた眼鏡の子の方だった。
「なにわざと外してる訳?」
「そっちが何も話さないからさ・・・転校ってどうゆう事?」
背の高い子は部活の指導の為、夏休みでも時折学校に来ていた。偶然に、職員室での会話を耳にしたのだった。
そして今日、手続きの為に登校していた眼鏡の子を、部活終わりの体育館に誘った。
「明深も憶えてるでしょ?あの教育実習の事」
・・・それは5月に行われた『教育課程クラス』での教育実習。実習生が『いじめられっ子』を演じ、クラス全員で『いじめ』を体験するという、他に類を見ない特殊な『研修』だった。
「もちろんだけど。だからって何で長峰が転校する必要があるんだよ」
「私が学んだのは『井の中の蛙』ではいけないという事よ。実際『いじめ』をやってみて、心に思う事は多かった。
貴重な体験をさせて貰った。本当にかけがえの無い授業だった。私は先生に心から感謝している」
明深にとっても、教育実習の先生と過ごした日々は大切な思い出だ。だから口を挟む言葉が見つからなかった。
「『風架け橋』は素晴らしい学校よ。でも学べない事もある・・・だから他の学校を見てみたい。実際に在学して、経験を積んでみたい。それはきっと、学生の立場でしか学べないものだわ。あの研修を活かし、先生の気持ちに応える為にも、私は・・・」
長峰が口をつぐんだ。明深の表情が目に入ったからだ。
入学当初から仲が良かった。体育会系で趣味趣向が違うのに、いわゆる腹を割って話せる相手だった。
彼女は決して涙脆いタイプではない。その明深が、今、瞳に涙を浮かべている。
「・・・クラスのみんなに、何て言ったらいいんだよ・・・」
長峰 遥はそっと明深へと歩み寄った。真っ白い綺麗なハンカチを差し出して、笑顔を見せる。
「説明は自分でする・・・それとね、戻らないつもりでは無いの。校長先生に頼んだら、『風架け橋』に籍は残してくれるって」
「えっ?そんな事出来るの?」明深は手にしたハンカチを握りしめる。
「特別に何とかしてみるって・・・校長先生、大分困ってたみたいだけど」
「呆れた。相変わらず無茶を可能にする人だね」
明深は光る瞳で笑顔を浮かべた。長峰は静かに呟く。
「私も、みんなと『風架け橋』で卒業を迎えたいもの」
・・・見慣れない教室、見慣れないクラスメイトの中で、授業が始まるまでの僅かな時間。長峰 遥は、暑い夏の体育館での出来事を思い浮かべた。
だが、授業のチャイムが鳴ると同時に気持ちを切り替え、真っ直ぐ前を向いた。
1時間目が終了すると、右隣りの席の女子が話し掛けてきた。
「長峰さん、この時期に転入って、何か事情があるの?」
「ううん、私将来先生になる為に『教育課程クラス』で学んでいて、他の学校の授業も見ておくと勉強になるかと思って」
さすがの長峰も「この学校で『いじめ』を見学出来るかと思って・・・」とは言えなかった。
「でも転入試験って難しいんでしょ?」
「そう、難しかったわ。普段から勉強してなかったらダメだったと思う」
苦笑いを浮かべながら答える。隣の真面目そうな女子は、
「普段から勉強してるんだ・・・」と小声で呟いてる。
「頭いいんだね!試験前とかお願い・・・寮に入るんだよね?」
右後ろの女子が身を乗り出す。
「あなた達も寮なの?こちらこそお願いします」ペコッと頭を下げる。
すると真後ろの席から、囁くような声が発せられた。
「寮に戻ったら、シャンプー教えてね」
長峰は振り返る。両手で頬杖ついた女子がじーっと見つめてる・・・
「シャンプー?普通のスーパーで売ってる物よ」
「嘘!何でそんな綺麗な髪してんの!?」
後ろの女子が立ち上がって長峰の髪を掴もうとする。右隣りの子が止めに入る。
「よしなって、もぅ〜!」
・・・そんなわちゃわちゃをしている間に、授業の時間が始まっていた。
教室に入ってきた先生の姿が目に入り、長峰はつい習慣で・・・
「起立!」と言ってしまった。その声があんまり通るもんだから、他の生徒は驚いて彼女を一斉に見つめた。
田山先生も一瞬驚いたが、笑顔を引きつらせつつ一番前の席の長峰に手を振った。
「あっあっ長峰さん、いいのよ・・・うちの学校、授業の始まりの挨拶省いてるから・・・」
「そうなんですね、すみません。すみません!」クラスメイトにもペコリと頭を下げた。
田山先生は内心動揺していた(・・・お願いだから、あんまり目立つ事しないでねぇ)
(でも、授業が始まるっていうのに)
長峰にとってクラスの状況は、なんと言うか、ある意味新鮮だった。
先生を気にせずスマホをいじる女子、机に突っ伏して顔を上げない女子。男子に至っては、机に座って数人でだべってる者もいる。
(自由な雰囲気っていうのかしらね)
この長峰の見解は、随分と好意的と言わざるを得ない。要するに、副担任の若い先生が生徒になめられまくっているだけだ。
「じゃあ授業だからね。席についてね」
田山先生はいつも通りの愛想笑いで、机に座ってる男子に注意を促す。
「は〜い」と男子達もいつも通りダラダラ従う。
(これで良し)ようやく先生が教科書を手にした・・・と思ったら、机に突っ伏してた女子が立ち上がった。
スラリとした長身のモデル体型、整った美しい顔をしているが、大あくびをされては台無しだ。
「カ、カジョウさん・・・どうしたの?」
先生は愛想笑いを完全にひきつらせる。
「体調悪いんで、保健室で寝てきま〜す」あくびしながら、さっさと教室を出て行ってしまう。
(体調悪いのではね・・・先生も了解してるみたいだし、持病でもあるのかしら)長峰は彼女の後ろ姿を見送った。
先生はというと、背を向けてチョークを手にしているが、字がグニャグニャになってしまう。
(仕方ない、仕方ない・・・理事長の娘と揉めて、いい事なんて何もないんだから)自分を納得させるように頷き、指が震えるのを必死で止めようとしていた。
『ピンポ〜ン』本日何度目かのチャイムが鳴った。授業は終わり、生徒達は其々に分かれて動き始める。
サクサクと帰る中には、塾のカバンを手にしている生徒もいる。ダラダラと手ぶらで帰る男子なんかもいる。
部活に行くために準備してる生徒達もいた。男子も女子も各々のアイテムを机やロッカーから取り出している。
そんな中で、当番である数人が掃除用具箱から箒やモップを取り出す。席順の当番ということで、周りの席の女子達と一緒に長峰も含まれてた。
「ちょっと!男子も掃除してよね!」
長峰の右後ろの席の女子は、果敢に男子にモップを手渡そうと試みる。
「俺ら、これから部活で疲れんだよ」
男子4人は、寄り集まって受け取る気配も見せない。
「ムリだって、千里。こいつらに何言ったって」真後ろな席の女子は、諦めたように掃除を始める。
「えーっだって悔しいじゃん!奈緒だってそうでしょ?私らばっかやってさ」
千里が食い下がると、男子の内の一人が部活で使うサッカーボールを投げつける真似をした。
「きやっ!」彼女が飛び退くと、男子達はゲラゲラと笑った。
「もぉ〜最低!酷いよね!?清香」
千里は自分の前の席の、真面目そうな女子に駆け寄る。
「うん、そうだね」同意はするものの、清香には男子に詰め寄る勇気はない。
ちょうどその時、バケツに水を汲みに行っていた長峰が教室に戻ってきた。女子達の様子を見て、男子にちらっと視線を向けたが、何も言わずに窓へと歩き出した。
「なんだよ、あいつ文句あんのかよ」
サッカーボールの男子が苦々しく呟く。
「どうした?タケル」仲間が声を掛けると、彼らに背を向けて窓を拭いている長峰を指差した。
「ちょっとボールぶつけて脅かしてやろうぜ」男子達はにやにやし始め、タケルは舌舐めずりしながら狙いを定める。
そして投げた!が、彼の専門は足で蹴ることであって、手を使うのは思いも寄らない程下手だった。
ボールは壁にぶつかって跳ね返り、床に天井にと跳ね回った。女子達が悲鳴を上げて逃げ惑う中、ボールは再度跳ねて窓に向けて飛んでいった。
「やばい!」タケルが悲鳴に近く叫ぶ!
サッカーボールの勢いは幾分落ちたとはいえ、窓ガラスにぶつかれば割ってしまう!!
弧を描いた軌道の先に窓が見えた・・・ダメだ割れる!と思った瞬間、白いほっそりとした手がボールの動きを止めた。
アホみたいに4人揃って大口を開けている男子達の前で、長峰は受け止めたサッカーボールをポンポンと床についた。
彼女はボールを投げて返す事はせずに、彼らの前まで持ってきた。ポンとタケルの手にしっかりと渡す。
「はい、気をつけてね」
眼鏡の下の瞳は真っ直ぐで、全く含みを持たない事が見て取れる。もちろん文句も無い。ただ純粋に注意を促すのみだった。
「すごい!」声を上げたのは、掃除当番のメンバーではなく、部活の準備をしていた女子だった。
彼女はバスケシューズを手にしていた。
「あなた、前の学校でバスケやってた!?」嬉々として駆け寄る。
「私はやってないわ。友達がバスケ部の主将をしてて、よく練習に付き合わされただけ」
「えっ!『風架け橋』でしょ!?主将って高杉 明深よね!?」
「ええ、もう引退したけど」ちょっとだけ、体育館の出来事を思い出す。
「彼女かっこいいわよね!男の子みたいで!」
「そうね・・・男みたいね」
すっかり掃除そっちのけで盛り上がり出した。当番の女子達も輪に入ってはしゃいでいる。
取り残された男子達は、已む無く掃除用具を拾い上げた。
「しょうがね。掃除するか・・・ほれ」
しかし、タケルはボーっとしてモップを受け取らない。
「おいどうした?」の声に、ようやく我を取り戻した。
彼は頬を赤くして、仲間達に振り返る。
「あいつ、近くで見るとすっげー美人!俺、恋に落ちたかも!」
「ええーっ」と呆れる仲間を尻目に、彼はモップを拾って、躍起になって掃除を始めた。
『私立 霞城学園』は長い歴史を持つ学校だった。
その割には校舎が綺麗だ。何故なら約10年前、現在の理事長が就任した際に大掛かりなリニューアル工事が成されたからだった。当時の生徒達は、そのせいで授業に大分支障をきたした事だろう。だがおかげで、今現在の生徒達は快適な環境を享受していた。
女子専用の学園寮も、その恩恵の一つだ。全て個人部屋、シャワーやトイレも部屋毎に完備されている。冷暖房は勿論、インターネット環境も整い「家にいるよりいい!」という暮らしが出来る。
初めて寮を訪れた日から一週間、長峰は未だにホテル暮らししているような気分だった。
その夜長峰の部屋を訪れたのは、クラスメイトの清香と奈緒だった。
「今日こそスキンケアの秘密を暴いてやる」という奈緒が部屋中を物色している間に、長峰は棚から本を取り出して、清香に手渡していた。
「もう読み終わったの?新刊なのに」
「ええ、とても面白くて」
「そうなんだ。私なんかいつ読み終わるか・・・」
清香はどうも自信を失くすと、声がちっちゃくなってゆく。
「ゆっくり読んで。返すのはいつでもいいから」
そんな長峰の言葉にも笑顔にも、清香は俯くばかりだ。そして、探し物を諦めた奈緒と一緒に自分の部屋に戻っていった。
彼女達2人が部屋を出たところで、タイミング良くスマホが鳴った。
「やあ、首尾はどうだい?」
快活でハキハキとした喋り方、聞き慣れた明深の声だった。
「まあね、楽しくやっているわ。みんな明るくて自由で、いいクラスよ」
「って、それじゃダメなんじゃないの?目的見失ってない??」
「そうね『研修』よね・・・そっちの方はあまり芳しくないわね」
「長峰自身は?転校生が『いじめ』を受けるって良く聞くじゃん」
「それならそれでって思ってたんだけど、仲良くしてくれるのよね。男子もサッカーの話とかしてくれて」
「(ま、長峰にいじめられる要素なんて無いからね)不発だったね。帰ってくる?」
「さすがに一週間で帰る訳にはいかないわ・・・それに、少し気になる事もあるから」
「と言うと?」
長峰は教室の様子を思い浮かべていた。縦に6列、各列に6〜7人。男女は混合で並んでいる。
「私目が悪いでしょ?一番前の席を空けてくれて。代わりに窓側の一番後ろに席を設けて、一人移動してくれたのよ」
「その移動した奴が何か言ってるの?」
「ううん、彼女は『自分は体が大きいから後ろで正解だ』って。バスケやってるのよ。あんたの事褒めてたわ」
「へぇ〜何て?」
「男みたいだって」
「褒めて無いじゃん!」
「まあそれはともかく」
「ともかくじゃねぇよ!」
逸れた話を、長峰は咳払いをして元に戻す。
「ともかく!窓側に新しく席をわざわざ用意したのよ。でも、廊下側の一番後ろの席も一人分空いてるのよ」
「つまりそこは空席じゃないって訳だ。ずっと休んでる生徒がいる?」
「そう。出席を取る時も、先生はその席には触れていない。夏休み明けからずっと・・・もしかしたら、その前からかも」
「ひょっとして登校拒否?有り得るかもだね。期待してるの?」
明深の声は揶揄するような調子だった。長峰は眉をしかめて答える。
「期待っていうのは少し違うけど」
電話を切った後、長峰は自分の考えを整理してみた。
自分は今のクラスの全員を良く知ってる訳ではない。でも清香も千里も奈緒も、体育会系の女子も男子も、知る限りいい人ばかりだ。
クラスの雰囲気が良いに越した事はない。『いじめ』なんて無い方が。
『いじめ』を求めて転入なんてして来た自分は、彼らに対して失礼だったのではないだろうか?
(反省しよう。自分勝手だったわ)
『いじめ』がある事を『期待』してるなんて、馬鹿げている。そんな考えは払拭しなければ。
(あの空席のことは、いずれ自然に知れる時がくるわよね)
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