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後になって、どうしてああいうくだらないことに夢中になったんだろう、と思い出すことは誰にでも一つはあるんじゃないかと思う。
俺らの中学の頃の同級生にとっては、それは間違いなく「紙飛行機を飛ばしたこと」だろう。
きっかけは、ある秋の日だった。俺達は中学一年生だった。
その時俺が何をやっていたかは、実はよく覚えていない。大方、友人達とバカなことをダベっていたとか、そういう感じだったに違いないとは思う。
俺──戸田基樹と、三歳の頃からの幼馴染で宿敵で腐れ縁の木野友則。……そして、無口でおとなしくて優しくていい奴だった菅原拓巳も、あの頃はまだ俺達の横にいた。
大体のパターンとしては、俺と木野が口げんかと共にアクション映画的な立ち回り(のつもりの何か)をして、それを菅原が半ば笑い半ば呆れながら見ている、というのが定番で、その時も多分そんな感じだった筈だ。
だから、それに最初に気づいたのは必然的に菅原だった。
「何だろ、あれ」
菅原の声に、俺達は彼の指差した先を見た。
秋晴れの真っ青な空を横切る、小さな白。
紙飛行機だ。
紙飛行機はしばらく飛んでいたが、やがてふらふらと揺れ、俺達の近くに落ちて来た。木野は紙飛行機を拾い上げ、何気なく開いた。
「誰が飛ばしたんだ、これ?」
校舎を見上げる。飛んで来た方向に目をやると、もう一つ、紙飛行機が飛んだ。三階の窓だ。
木野は拾った紙飛行機をポケットに突っ込むと、その窓に向かって早足で歩き始めた。俺も後を追う。高所恐怖症というか、階段の登り降りが苦手な菅原はついて来なかった。
階段を二段飛ばしで登って三階の教室へ向かう。ここと当たりをつけた部屋のドアを開けると、そこに人影があった。同じクラスの中田浩樹だ。
「なんだよ、中田じゃん」
「おう、木野と戸田か」
中田はA4のコピー用紙を折りながら、こちらを向いた。
「何やってんの、おまえ」
「見ての通り。紙飛行機飛ばしてる」
出来上がったばかりのそれを、つい、と窓の外に放つ。
「なんで?」
「飛ばしたいんだよ。遠くまで。出来るだけ遠く」
中田は空を見ながらそう答えた。
「そうか」
木野は中田の向かい側にあった椅子にどっかりと座り、言った。
「じゃ、俺もやる」
「はあ?」
流石の中田も、思わず木野の方を見た。中田は知らないかも知れないが、突飛な行動なら木野の方が年季が入っている。
「俺も紙飛行機飛ばす。折り方とか研究して、少しでも遠くに飛ばせるようなやり方をおまえに教える」
「……マジか?」
中田は少し助けを求めるような目を俺に向けた。俺は首を振った。悪いが木野はマジだ。妙なことには首を突っ込みたがるし、やると言ったら本当にやる。そういう奴だ。
「よし、じゃあ明日から、紙飛行機飛ばしプロジェクトの始まりだ」
そう言って木野はにか、と笑った。
数日が経った。
「戸田くん!」
廊下で、明らかに怒気をはらんだ声をかけられた。学級委員の安藤香菜だ。
「何なの男子連中は。一体何やってるの」
「何って……紙飛行機飛ばし」
「そんなことはわかってるわよ!」
あの翌日から、木野は本当に中田と一緒に紙飛行機飛ばしを始めた。ネットで様々な紙飛行機の折り方を検索して作ってみたり、紙を色々変えてみたり、風向きや風の強さを測ってみたりと、とにかく遠くへ紙飛行機を飛ばすことだけを目差してあれこれやっている。
色々な意味で木野はクラスでは目立つ男であり、それが黙々と紙飛行機を作って飛ばしてるのを見て、他の男子も興味を持ったらしい。我も我もと紙飛行機作りに参加し始め、今ではクラスのほとんどの男子が競うように紙飛行機を飛ばすことに熱中していた。
誰かが遠くへ飛ばすと、木野はすかさずそいつに紙飛行機の作り方や飛ばし方を訊き、フィードバックさせる。メンバーが増えたのをいいことに、集合知で遠くまで飛ばす方法を模索しているようだった。
わけがわかんない、と安藤の顔に書いてあった。なんだって男どもはこんなくだらないことに熱中しているのか。
それは正直、俺にも答えられなかった。一時の熱情としか言いようがない。そもそも最初に始めた中田と木野が、何を考えてこんなことを始めたのかは俺にもわからない。木野のやることがわからないのはいつものことだが、中田が何を考えているのかわからない。
「ていうか、困るのよ。男子があれやってるせいで、合唱の練習が全然進まないの。動画撮らなきゃいけないのに、これじゃ小山先生の結婚式に間に合わないわよ」
小山裕子先生は、うちのクラスの副担任だった。二十代後半の隣のお姉さん的な感じの先生で、男子にも女子にも人気があった。数年前から付き合っていた婚約者が仕事で海外に赴任することになり、それを機に結婚して今年度いっぱいで退職することが決まっていた。
先生の結婚式には、流石にクラスの生徒全員が参加することは出来ない。なので、全員でお祝いの歌を歌う動画を撮り、披露宴で流すことを決めていた。
その練習もしなければいけないのだが、男子は紙飛行機にかまけていて参加するのは女子ばかりだ。安藤の苦労も察して余りある。
「……もし合唱が上手く行かなかったら、俺が責任を持って木野に何とかさせる。約束する」
「木野くんに?」
「あいつなら、一人でカバー出来るからな」
安藤は疑わしげな目を向けたが、俺は知らない振りをした。
──それにしても。
俺は中田と木野が紙飛行機を作っているだろう方向を見上げた。
文句が出るってことは、そろそろヤバい領域まで来てんじゃねーのか、木野?
俺の心配は、程なく現実になった。
紙飛行機飛ばしは他のクラスに飛び火する程に流行っていたのだが、そうなると必然的に飛ばす紙飛行機の数も増える。
大抵の奴は飛ばすばかりでそれっきりなので、校内のあちこちに紙飛行機が散らかることになった。俺と菅原とで出来る限り拾って回っていたが、二人だけでは手に余った。
さらに、飛んだ紙飛行機は学校の周りの道路や近くの家の敷地にまで落ちていて、近所の人達から学校に苦情の電話が来るようにまでなった。事態はいよいよマズいことになっていた。
そして、ついに。
「おまえら、紙飛行機は禁止だ! ほら、そこ、全部片付けろ」
皆が集まっていた教室の扉を勢い良く開けて、生徒指導の先生が叫んだ。
近所の人達からの苦情を受け、学校は全校生徒に紙飛行機の禁止を通達した。理不尽だという声もあったが、実際近隣に迷惑かがかかっていること、校庭の掃除当番の生徒や園芸部の生徒からの苦情もあったこと、学校のコピー用紙を勝手に使う生徒も出て来たことで、最終的には紙飛行機禁止令は通ることになった。
「これを最初に始めたのは誰だ?」
生徒指導の先生は教室に集まっていた生徒達を見回し、言った。
中田が何かを言いかけたが、その前に木野がすくっと立ち上がった。
「俺です」
木野の姿を見て、先生は顔をしかめた。
「木野か。……まあいい、一緒に校長室まで来い」
木野は黙って先生について行く……と思わせて、教室を出る直前に少しだけ振り向いて、中田に向かってニッと笑った。
そのまま、俺達の前で教室の扉は閉まった。
小一時間校長室でこってり絞られた木野は、それでも平然と俺達の元に戻って来た。
「意外と平気そうだな」
「まーな。打たれ強いのが俺のいいところだ」
自画自賛もはなはだしい。いつものこいつだ。
「木野、なんかごめんな、俺のせいで」
木野は謝る中田をちらりと見た。
「今日の放課後、最後の飛行機飛ばしをする」
「え……」
「飛ばすのは一回だけ、おまえ一人。飛ばした紙飛行機がどこかに落ちたら、俺らが出来る限り回収する。これが終わればもう紙飛行機飛ばしは一切やめるし、誰かがやってるのを見たら俺らで止める。……条件はそれだけだ」
ただ叱られるだけではなく、木野は校長先生相手に交渉までして来たらしい。どうやって条件飲ませたんだ、こいつ。
「だからな、中田。放課後、一番スペシャルな機体を持って来いよ。絶対だぞ」
放課後。
俺達は校舎の屋上に集まっていた。中田、木野、俺、菅原、そして何故か安藤。
「なんでいるんだ、安藤」
「お目付け役よ。あんた達が妙なことしないようにね」
「しねーよ。……菅原は大丈夫なのか、屋上とか」
「あんまり平気じゃないけどな。でもなんか、見届けなきゃいけない気がして」
そう、菅原の言う通りだ。俺達は何かを見届ける為にここにいる。……それが何かはわからないのだが。
木野は人差し指を口に入れ、それをさっと空に掲げて風向きを測った。
「中田! 飛行機は?」
中田は紙飛行機を持って、おずおずと進み出た。真っ白な紙で折られた、何の変哲もない紙飛行機。
「それがおまえのスペシャルか?」
木野の言葉に、中田はうなずいた。
「だったら、それにおまえが本当に飛ばしたいものを乗せて飛ばせ。……俺がその紙飛行機を遠くまで送ってやるから。ここで飛んだ、どの紙飛行機より」
木野は中田を、校舎の裏手側の方へ連れて行った。
「ここから飛ばすぞ」
「こっち側は道路じゃない。どこかの家に飛び込んじゃったらどうするの」
安藤が口を出した。
「その時は、俺らがそのお宅に謝って回収するさ」
……なるほど、「俺ら」がな。
「おまえが思いっきり俺達を巻き込もうとしてることは、よくわかった」
「ま、いいからいいから。俺が合図したら投げるんだぞ」
風が吹く。中田は紙飛行機を手に、木野の合図を待っている。どこからか、車の音が聞こえた。
「TAKE OFF!」
木野の声が飛んだ。
中田の手が紙飛行機から離れた。
風に乗って、紙飛行機が飛ぶ。
校舎の屋上から、塀を越えて道路の方へ。
学校の敷地を越えた辺りで、飛行機がバランスを崩した。
高度が下がる。
落ちる。
「あ」
思わず声を出したのは、俺か、中田か、菅原か、安藤か、それともその全員か、よく覚えてはいない。
紙飛行機は、ちょうどその場を通りかかったトラックの荷台に着陸した。そのまま紙飛行機はトラックに運ばれ、俺らの視界から消え去った。
「な、一番遠くまで行ったろ?」
木野が、ドヤ顔で言った。
「それで、あれは何の儀式だったんだ?」
菅原が言った。
中田と安藤を先に帰し、俺と木野はゆっくりとしか階段を降りられない菅原に付き合ってゆるゆると階下へ降りていた。
菅原の質問は、俺も訊きたかったことだ。あの紙飛行機は、どんな意味があったんだ?
「これだよ」
木野はポケットからくしゃくしゃになった紙を出して、俺によこした。良く見ると、その紙には折り目がついている。紙飛行機を開いたもののようだった。その紙の真ん中に、小さく鉛筆で書かれた文字があった。
『好きだ』。たった三文字。
「これは、中田が一番最初に飛ばした紙飛行機だよ」
俺と菅原は、思わず木野を見た。
「中田が本当に飛ばしたかったのは、この恋心だ。どこか遠くに、見えなくなるまで遠くに。報われない恋心を、飛ばしたかったんだ」
「報われない恋?」
「そこらの女子への恋なら、告白でも何でもすればいい。でも中田が誰かにフラレたって話は聞かない。そもそも、中田が誰かに恋をしてるって話すら知らなかったろ、誰も。安藤香菜にも訊いてみたけど、女子の間にもそんな噂は流れてないそうだ」
「じゃ、中田が好きだったのって……」
木野は吊り気味の眼で俺達を見た。
「一人いるだろ。他の男の所へ行く為に、俺らの元を去って行く女性が。しかも、学校中の皆に祝福されてると来た」
「……小山先生か!」
中田は、小山先生が好きだったのか。結婚する先生をあきらめる為に、こんなことを……?
「紙飛行機にのめり込んだのは、例の合唱動画をやりたくなかったせいかもな。素直に祝うことが出来なかったんだ」
好きな相手が、知らない誰かと結婚してよそへ行ってしまう。自分にはそれを止めることは出来ない。というか相手は、自分を生徒の一人としか思ってない。……そうなったら、その想い自体をどこか遠くに飛ばしてしまいたいと考えても不思議ではない、かも知れない。
「それじゃ、飛行機をトラックに落としたのもわざとか」
「ああ。あれは近くのコンビニの配送トラックだ。大体この時間にはあの道を通る。飛行機を一番遠くにやるんだったら、ああするのがベストだと思ったんだよ」
中田の最後の紙飛行機は皆の紙飛行機への熱狂も一緒に持って行ってしまったらしく、紙飛行機作りの流行は翌日からぱたりと治まった。
憑き物が落ちた、という表現がぴったり来るくらいに、本当に誰も紙飛行機には見向きもしなくなった。
中田があれで小山先生への恋心を吹っ切れたのかは、俺にはわからない。それでも何らかの区切りはつけられたらしく、合唱の練習にも顔を出していた。
小山先生へのお祝いの合唱動画は予定通り撮影されたが、主に男子が練習不足だったせいで微妙な出来にしかならなかった。
それで安藤との約束を果たす為、俺はあれこれ根回しをして、木野を生徒代表として先生の結婚披露宴に送り込んだ。
同じく生徒代表として出席した安藤の話によると、木野は一人芝居や口上やラップやヒューマンビートボックスを駆使して微妙な出来の動画を盛り返し、客を大いに沸かせることに成功したらしい。
SNSを経由して安藤が送って来た写真には、幸せそうに微笑む小山先生が写っていた。先生が着ているウエディングドレスは、あの日秋空を滑るように飛んでいた紙飛行機のように真っ白だった。
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