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沙耶というのは、拓真の小学校の頃からの友だちらしい。らしいというのは、私は一度も沙耶に会ったことがない。それでも名前を知っているのは、拓真の話によく沙耶が出てくるからだ。もちろん、他の友だちの話も出てくるけれど、話題に事欠かない沙耶の話は圧倒的に多かった。
沙耶は、心が少し弱いらしい。そして、意外にも甘え下手。弱音を吐けるのは昔ながらの友だちにだけで、特に自分にはなんでも打ち明けてくれると、拓真は得意げに話していた。
『彼氏に振られたんだと。おまけに職場の人間関係もうまくいってないとかで、すげえ落ちてて。電話口で死ぬ死ぬ言い出すんだよ』
「そっか。それは」
大変だね。ちゃんと話聞いてあげなよ。きっと、拓真にしか頼れないんだから。
いつもの予測変換が口から出てこない。
ただの会う約束<自殺の危機。そりゃあそうだ。優先するならこっちだ。大丈夫。分かってる。今日も、わかってあげられる。
私は唇を割った。
「別れる」
『……は?』
電話の向こうで、拓真の足が止まったような気配がした。
『え? 葵? 今なんて言った?』
「別れる。って言った」
どうして自分がこんなことを言い出しているのか。自分でもよくわからなかった。けれど、言葉はまるで事前に準備していたみたいに、淀みなく口から出た。
『なんで?』
拓真の眉間に、面倒くさそうにしわが寄る。きっと、寄っている。声のトーンだけで、拓真がどんな顔をしているのか、手に取るようにわかる。
大好きだったから、わかる。
私は泣いていた。自分でも今気付いた。壊れた蛇口みたいに、涙がぽろぽろ溢れてくる。
『葵、とりあえず会って話そう。今どこ?』
「ごめん。もう会えない。会いたくない。このまま別れて」
『……本気で言ってんの?』
尖った声に、わずかに気持ちが怯む。けれどすぐに、ごめん、と口を突いて出た。
『わかった。もういい』
あきれたような怒ったような声のあとに、無機質な通話終了の音。
頭が痛い。やっぱり治ってなかったんだ。
人目も憚らず泣きじゃくりながら、私は家路に着いた。
拓真とは合コンで知り合った。いかにも数合わせで来ていますみたいなつまらなそうな顔をしていて、最初から感じが悪かった。
けれど、目を惹くほどかっこよかった。背が高くて顔つきは精悍で、指もすらりとしていてきれいだった。こんなひと、本当にいるんだ。そんなふうに思って、しばらく見惚れてしまったくらいだ。
結局、合コンでは話せなかった。話せたのは、解散したあとの電車のホームだった。途中でコンビニに寄った私より先に、拓真はホームにいた。平日ど真ん中の水曜日。終電二本前の電車を待つホームは、人もまばらだった。
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