第四幻【都忘れ】

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第四幻【都忘れ】

明るい茶髪のミディアムヘアに、白のニット、上には袖なしのダウンを羽織り、下はプリーツ切り替えスカートにショートブーツという格好だ。  大学の授業を受けている間も、千嘉のスマホには何件もメールや電話が入ってきて、メールには適当に返信をし、電話にはメールで後で連絡をすると送った。  授業を終えると、千嘉はすぐに電話をかけ直す。  「ごめんなさい、出られなくて。うん、そう、ふふ」  楽しげに話したかと思うと、千嘉は口角は上げたまま、しかし冷めた目でスマホの画面を眺める。  それからまたすぐに電話をかけると、その相手と会う事になった。  待ち合わせ場所に選んだのは、色んな人達が行き交う駅前で、千嘉が到着するころには、すでにその人物はいた。  千嘉はすぐにはそこに行かず、しばらく様子を観察してから会いに行く。  「ごめんね、待った?」  「待ってないよ。急に呼びだしてごめんね」  待ち合わせをしていたのは、千嘉と同じくらいの年齢の女性だった。  以前、女性が他の女性に囲まれていたところを千嘉が助けたらしく、それ以来、何回か会っている。  女性から連絡がくることは珍しくなく、千嘉を信頼していることが良くわかる。  同じように学生のはずなのだが、学校に通っている様子がないことから、きっと学校には通っておらず、バイトなどをしているのだろう。  千嘉は女性と一緒に駅の中へと入ると、どこかへ向かう為に改札内へ移動する。  そこで電車を待ちながら、話をする。  「それで?何かあったの?」  心配そうに千嘉が聞いてみると、女性は少し俯きながら答える。  「妊娠、しちゃったみたいなの・・・」  相手は、バイト先で会った年上の男性のようだが、その男性にはまだうち開けていないという。  その時、千嘉たちが待っているホームに電車がくるというアナウンスが流れた。  電車が来るであろう方向に顔を向けていると、そこからは冷たい風と共に走ってくる電車の姿が見える。  その電車に乗り込むと、数駅先にある女性のマンションまで行くことになった。  バイト代だけで借りられるのかどうかさえ分からないようなマンションのエントランスに入ると、部屋番号を押して鍵を開ける。  管理人室はあるものの、管理人はいないようだ。  綺麗に咲いている花は、きっと今いない管理人が世話をしているのだろうか。  「どうぞ」  女性に言われて部屋の中へ入ると、小奇麗にされていた。  玄関を入ってすぐに1つ部屋があり、そこは物置だといっていた。  その奥にトイレとお風呂場が並び、リビングが広がっている部屋まで行くと、そこには2つのドアがあり、1つは寝室、もう1つは洗濯機などが置いてある狭い場所があるだけだと言う事だった。  リビングには、使っているのかさえ分からないような綺麗なキッチンがあり、女性は上着を脱ぐとキッチンへ向かい、温かい飲み物を用意し始める。  座るように言われたため、千嘉はこじんまりとした、独り暮らしには十分なテーブルのところまで行き、そこの椅子に座る。  ホットココアを出されると、女性は千嘉の目の前の椅子に腰かける。  「それで、妊娠したって伝えないの?1人で育てるの?」  「・・・相手の人ね、奥さんも子供もいるの。だから・・・」  バイト先の男性は、どうやら一時ヘルプに来ていた本部の人のようで、妻子持ちだということは知っていて関係を持ってしまったそうだ。  こんなことになるとは思っていなかったようで、女性はとても悩んでいる。  「だって、何回目?中絶するの」  「・・・・・・」  「本当に子供産めなくなっちゃうよ?」  「・・・・・・」  「中絶費用だって、安くないでしょ」  ちらっと部屋の様子を見ていた千嘉は、女性が何か隠していることが分かり、頬杖をついて女性を微笑みながら見る。  「ねえ、バイトって他にもしてるの?」  「え?」  「だって、こんな良い部屋、どうやって借りてるのかな―と思って。私もしようと思ってるんだよね、バイト」  女性は目を泳がせたかと思うと、目の前の千嘉をちらっと見て、ココアを飲んでいるのを確認してから、口を開く。  「あのね、ごめん、嘘吐いてた」  女性が白状したのは、関係を持った男性が1人だけではなかったということだった。  小遣い稼ぎという軽い気持ちで始めた、ネット上でのチャットをするだけというバイトだったのだが、徐々にエスカレートしていき、ついには実際に会っての肉体関係という、売春行為だった。  罪悪感にさいなまれたのは一瞬だけで、身体一つで稼げるのなら、こんなに簡単なことはないと思ってしまったようだ。  「じゃあ、相手がどこに住んでいるのかも分からないんだ」  「うん・・・。一回だけだったし、安全日だと思ってて・・・」  女性は急に泣き出すと、男性のことが本当に好きになったから、中絶はしたくないと言いだした。  両手で顔を覆いながら泣いている女性に対し、千嘉は優しく頭を撫でる。  「大丈夫。私が助けてあげる。お腹の子と2人で幸せになる方法を教えてあげるね」  「お子さん、亡くなりましたか?」  「いいえ。あなたは?」  「変なお話になってしまうんですが、私、視えるんですよ。除霊師なので、良かったら少しお時間いただけませんか?変な勧誘とかではありません。本当に、お時間だけいただきたいんです」  年配の女性に取り憑いていたのは、見知らぬ子供の霊。  去年、近所の五月蠅い子供が事故で亡くなったこと以外は身に覚えがなかった女性は、そのときの子供かと思った。  子供の見た目も合っていたため、その時の子供が女性に言われたいじわるを仕返しに取り憑いたのではないかと考えた。  「道中、気を付けてくださいね。同じ目に遭わせようとしていますよ」  その言葉を聞いてから、女性は挙動不審になった。  信号で待っている間も、後ろをちらちら確認したり、自転車とぶつかりそうになっただけで発狂したりと、明らかにおかしくなっていく。  家に帰ってからも、女性は電気をつけることも出来なくなり、パートに行くのも徐々に減っていった。  部屋で1人でいる女性のもとに、電話が鳴る。  『もしもし、私です。掵綯です。大丈夫ですか?もしよかったら、今から会いませんか?』  千嘉に場所を指定されると、そこが自分の家から近かったこともあり、女性はマスクやフードを被った状態で部屋を出る。  信号で待っている間も、出来るだけ端に立ち、人が近くにいないようにしていた。  そして信号が変わり、横断歩道を渡ろうとしたその時、女性の身体は意思とは別の動きをし、そのまま前へと倒れて行く。  顔を動かすと、ヘッドライトに顔を照らされた。  自分の部屋にいる千嘉は、パソコンで何かを見ていた。  フォルダ名は“コレクション”。  そこに映っている写真には、色んな人たちの笑顔が並んでいる。  頬杖をつき、もう片方の手で指を動かしながら、千嘉は鼻歌を歌いながら眺める。  「ほら、みんな幸せになった」  自分で用意した緑茶を一口飲んでいると、千嘉のスマホがまたチカチカと光り出し、画面を見ると同じ大学の男性からだったため、電話に出る。  電話の内容は、今から男性の家に来て一緒に呑もうということだった。  面倒臭いとも思った千嘉だったが、迎えに来るとまで言っていたので、いつもよりも女性らしい格好に着替えて待つことにした。  男性が迎えに来ると、まっすぐ男性の部屋まで向かう。  部屋に着いてコートを脱ぐと、ざっくりと開いた胸元に、太ももが見える短い丈のワンピースが目に入る。  それほど広くない部屋の隅にあるベッドに背中を凭れさえ、クッションを抱きながら待っていると、男性がお酒とつまみを持ってきた。  「ありがとう」  コップも持ってきたくれたのだが、千嘉はそのままプルタブを開けて口をつける。  馬鹿な話をしながら、何杯目かもわからない缶に手を伸ばしたところで、男性が千嘉の腕を掴んだ。  勢いで男性の身体に埋もれた千嘉だが、抵抗もすることなくいると、男性が千嘉に顔を近づけて来た。  その後、男性と身体を交えた千嘉は、その胸元に顔をすりよせながら囁く。  「ねえ、お願いがあるの」  甘い声でおねだりすれば、男性はまた千嘉の身体を押し倒し、千嘉がお願いしようとしていたこととは別のことをし始める。  頭の中は冷静なもので、疲れたとか、いい加減眠いとか、そういうことは思っていても口にはしない。  ようやく、男性が疲れた眠ったところで、千嘉は身体を起こす。  首の裏を摩りながら、横ですやすやと寝ている男性を一瞥する。  千嘉は、とても真面目な子だ。  ただ、人とは少し違うところがあり、それを隠して生きている。  その千嘉の本性を知っている者は多分いないだろうし、これから先も知られることはないだろうと自信を持っている。  ネットでは除霊師としての力を持っていると書きこんでいるため、千嘉とコンタクトを取りたがっている者はたくさんいる。  実際にそんな力を持っているかどうかはこの際どうでもいいとして、問題は、千嘉の人としてのあり方だろうか。  「大丈夫。私が助けてあげる」  千嘉の言葉に、彼らは陶酔する。  ニュースでは、見慣れたアナウンサーが原稿を読み上げ、最近出てきたばかりの名前などわからない芸能人がコメントを付ける。  つまらない日常の中で、千嘉が幸せを感じられるのはほんのひと時。  いつものように近所の人に挨拶をして、いつものように友人と学校へ向かい、いつものように授業を受け、いつものように帰り道にコンビニに立ち寄ってミルクティーを買う。  家に着くまでにそれを飲み終えると、帰ってすぐにゴミ箱にそれを捨てる。  鞄を適当に投げ捨てると、シャワーを浴びようと風呂場へ向かう。  その時、またしてもスマホが鳴る。  ちらっと横目で見てみると、画面にはネットで知り合った人物の名前が載っていた。  「もしもし」  『千嘉ちゃん?この前のことが気になって。あれ、どうなったの?大丈夫だった?』  何の話だったかと思いを巡らせた千嘉は、脳をフル回転させた結果、すぐに想いだすことに成功した。  「ああ、近所で殺されちゃったわんちゃんのことですね。警察には連絡したんですけど、動物は物扱いだからどうにもならないって言われて」  『動物愛護団体の人たちはどうだった?』  「写真を撮って、なんとかああいう事件を減らそうと活動してくれてるみたいです。でもやっぱり犯人は見つからないし、捕まることはないだろうって・・・」  『そうなんだ・・・。千嘉ちゃん、すごく落ち込んでたもんね。良かったら家来る?』  不自然な流れでその男性の家に行くことになった千嘉は、男性が住んでいるマンションまで向かうと、エレベーターではなく非常階段を使って上って行く。  インターホンを押して部屋に入れてもらうと、男性はいきなり千嘉に抱きついてきた。  千嘉は驚く様子も拒否する様子もなく、ただ男性の欲望の赴くままに、男性が満足するまで自由にさせていた。  ようやく千嘉が自由の身になったのは、すでに3時を過ぎた頃だった。 1現目から授業があるから、まずは帰ってシャワーを浴びて、それから電車の中で少し仮眠を取って、3現目は授業を取っていないから、その時に食堂か図書館あたりで寝よう、と計算をしていた。  千嘉が動き出したことに気付いた男性は、まだ眠たげな目のまま千嘉の腰に抱きつくと、男性の力に叶わず、千嘉は動けなくなってしまった。  「授業があるんです。一度帰ってシャワーを浴びないと」  「シャワーならここの使っていいから。それに、千嘉ちゃん優秀だから、1回くらいさぼったって大丈夫だよ」  「ダメですよ。単位落としたくないし。厳しい先生なんです。欠席すると成績悪くされるかもしれません」  「そんな奴、俺が殺してあげるよ。千嘉ちゃんをいじめる奴はみんな」  「・・・・・・本当ですか?」  「うん、本当」  寝ぼけたまま笑う男性に、千嘉は抱きつく。  千嘉のお腹あたりに男性の顔が来るような姿勢になると、その温もりに、男性は再びまた瞼を重くする。  「約束ですよ。私、約束を守れない人って大嫌いなんです」  「絶対、守るよ・・・。約束・・・」  男性の耳元に口を近づけると、千嘉は何かを囁いた。  男性は半分夢の中に入った状態でそれを承諾すると、千嘉は寝ている男性の腕をすり抜け、シャワーを借りてそのまま大学へ通った。  それから1カ月ほど経った頃、男性のもとへ、千嘉から連絡がきた。  『約束、守ってくれませんでしたね』  「約束・・・?」  男性はなんとか思い出そうとしたものの、どんな約束をしたのか思い出せなかった。  それを千嘉に正直に話すと、しかたないですね、と言って、これから会えないかと言ってきたため、それを受け入れる。  仕事終わりの男性が待ち合わせ場所に行くと、すでに千嘉は着いていた。  千嘉は男性の手を取って、人気のない公園へと向かうと、トイレへと入って行く。  女性トイレに入るのはどうかと思った男性だが、千嘉に強く手を掴まれているため解くことも出来ず、なされるがままだ。  壁はスプレーで落書きがされており、トイレットペーパーも補充されていないことから、長く使われていないのだろう。  千嘉は男性をトイレの蓋の上に座らせると、鞄からコーヒーを取りだし、それを男性に呑むように勧める。  どうしてこんなところで飲むように言うのかと不思議には思ったものの、千嘉が言うならと、男性はコーヒーを口にする。  「・・・!!」  男性がコーヒーを吐きだしそうになると、千嘉は男性の口にハンカチを押し当て、その上から自分の唇をあてがう。  男性の膝の上に跨ると、自分の腕と足を使って器用に男性の腕を動かないようにし、男性がもがいている間ずっと、その体勢を続けた。  薄らと目を開けてみると、男性の瞳孔は開ききっており、千嘉に助けを求めるかのような声を絞りあげているようだが、千嘉はそれに応えない。  しばらくして男性が動かなくなると、千嘉は男性の上から下り、ハンカチと共に自分の唇も離した。  ぐったりとしている男性をしばらく眺めたあと、千嘉はトイレから出る。  公園を抜けて家に帰ろうとしたところで、変な服装の男が現れる。  「なにか御用ですか?」  「俺の名は雅楽」  「聞いていません。なにか用があるのかと聞いたんです。それとも不審者ですか?警察呼びますよ?」  「お前は何も取り憑いていない。妖怪などの類でもない。なのに人を殺している」  「・・・・・・それが何か?」  「血の臭いがすさまじい。何人殺した?」  「ふふ、面白い人」  小さく笑う千嘉は、可愛げがあった。  しかし、千嘉は続けてこんなことを言った。  「直接手を下したのは・・・5人もいないと思いますよ?あとは、みんな勝手に死んでくれただけなので」  「お前が操ったんだろう」  「私は魔女じゃありません。操るというのは、無理なんじゃないでしょうか」  「・・・・・・」  「私はみんなを助けたんです。救ったんです。むしろ感謝してほしいくらい。苦しんでいたから、手を差し伸べただけなのに、なんであなたにそんなことを言われなければいけないのでしょうか」  「お前は」  「私は」  雅楽の言葉を遮って、千嘉は自慢話のように話し出す。  「友人が妊娠してしまったと悩んでいれば、ならばその子と一緒に死ねば、地獄でも一緒になれるんじゃないかと思って、お腹の子も一緒に死ねるよう、強い薬をお勧めしておいたんです。飲むという決定を下したのは彼女自身。近所の子供にいじわるをしていたおばさんは、子供の怨霊がついていますって親切に教えてあげたら、色んなことをその子供の怨霊のせいだって関連づけちゃって、勝手に事故に遭っただけ。私のことを好きだって言って、身体が目当てだった男もいたけど、お風呂入れておいたから入ってくださいねーって言ったら、お酒を飲んだ状態で入っちゃって、そのまま勝手に溺れただけ。あの男だって、私は約束を守れない人は嫌いだって言ったのに、約束を守ってくれなかったから。私、あの先生本当に苦手だったの。厳しい先生だったから、単位取れるか本当に難しくて。わざわざ身体触らせて、それで単位貰ったの。早く殺してくれてれば、そんなことしなくても単位もらえたかもしれないのに。・・・あ、死んじゃったら授業自体パーになるのかな?その場合、単位ってどうなるんだろう。ねえ、どうなるか知ってます?」  千嘉の、少しも罪の意識のない言葉と感情、声の抑揚に、雅楽は何か感じる。  そして、千嘉は雅楽に対し、雅楽のことを知っていると言いだした。  近くにあるベンチに腰掛けながら、立ったままの雅楽のことを見ることもなく、自己ペースで話を進める。  「雅楽さん、知ってますよ。でも、人間は封印できませんよね?」  「・・・・・・」  どこで雅楽のことを聞いたのかは分からないが、千嘉は雅楽のことを説明し始める。  雅楽は、自分のことだというのに、まるで他人事のようにその千嘉の説明を聞いており、ただずっと突っ立っていた。  「残念でしたね」  「・・・ああ、残念だ。この世で最もおぞましいのは、人間だというのに」  「私がおぞましいですか?人助けをしている聖母ですよ?みんな、死んですっきりしたんじゃないですか?生きていると色々と悩んでばっかりで、負の感情に振りまわされて生きるくらいなら、死んだ方が悩むこともなくていいと思いますけど」  「それはお前の勝手な理屈だ。そこにはお前の欲望が渦巻いている。もし俺に幽霊というものが見えるのなら、お前の周りには亡霊が沢山いるんだろうな」  「あら嬉しい。いつでも誰かが傍にいてくれるなんて、とっても幸せ」  その時、千嘉のスマホが鳴る。  最初は無視しておいたのだが、またすぐに鳴ったため、雅楽から目線を外し、千嘉はスマホを確認する。  そこには、千嘉に相談に乗ってほしいと言う内容のメールが数件届いており、千嘉は返信しようとする。  しかし、すぐ目の前に雅楽が来ていたことで画面が暗くなり、千嘉は顔をあげる。  にっこりと微笑みながら言う。  「何も出来ないなら、黙って見ていれば?」  そう言って、千嘉はスマホの画面に目をやり、操作しようとしたのだが、指が動かなかった。  いや、指だけではなく、身体全体が硬直状態になってしまった。  「何を・・・!?」  文句を言おうと雅楽を見た千嘉は、言葉を失った。  そこに見えたものは、この世のものとは思えないほどの景色というのか色というのか、それとも世界とでも言うのだろうか。  その中に正解があるのかもわからないが、とにかく、千嘉にとっては今まで見てきたどんなものよりも恐怖を感じるもの。  言葉で説明しようにも困難で、感情で伝えようものなら、"怖い“としか言えない。  千嘉は目を見開き、呼吸を忘れる。  「確かに俺は人間を封印することは出来ない。なぜなら、呪符は人間が作ったものだからだ。人間は自分たちを穢れたもの、もしくは封印すべき存在とは思っていない。だから呪符では封印できない。それだけのことだ。だから、お前には地獄に行ってもらう。これはいた仕方ない。お前など、地獄の釜で茹でだとしても喰えたものではないだろうが、無駄死にさせられる生物たちの気持ちになるには丁度いい機会だ。ああ、なんで俺の中に地獄があるかという質問に関しては、答えようがない。俺にも詳しくは分からないからな。ただ、1つ確実なことは、呪符にしても地獄にしても、俺は、俺の身体というのか、呪われているということだ。お前のような人間とも、これまでに会ったよくわからない妖怪とかなんとかとかも、俺からしてみれば同じ部類だ。俺は誰にも干渉されず、誰にも束縛されず、誰にも指図されず、誰にも施されず、誰にも望まれず、誰にも見つかること無く生きていきたいだけだった。それが出来ない今となっては、ただの戯言だが。人間だということで逃げおおせると思っていたお前は、地獄でどんな夢を見るんだろうな。俺に知ることは出来ないし、全く興味のないことだが、せいぜい、地獄では何度も死を繰り返して、己の存在意義を確かめることだ」  雅楽が話終えるころ、すでにそこに千嘉の姿は無かった。  地面には、千嘉のものと思われるスマホが落ちており、チカチカと誰かからの連絡を知らせる光と音が鳴っていたが、雅楽はそれを拾うこともなく去って行く。  急に強い風が吹いて、雅楽の頬を落ち葉が掠めていく。  雅楽はふと足を止めて空を見上げようとしたのだが、またしても落ち葉が顔の前に来て、雅楽が空を見るのを邪魔したように感じたため、見上げるのを止める。  止めていた足をまた動き出すと、雅楽は人ごみの中へと消えていく。  人の心には悪があり、虫がいて、魂が宿る。  それは良くも悪くも、その人の精神や肉体に寄生し、人生を左右する。  神や仏というものは、どんなに苦しんでいる人がいたとしても、ただ見ているだけ。  手を差し伸べることもなければ、助言してくれることもなく、涙を拭ってくれるわけでもない。  そんな時、人の心の中にある悪が、“恨み”"妬み“”憎しみ“といった感情を作りだし、増幅させ、その人間の行動を突き動かす。  穴だらけの心に住みつくのは簡単で、住みつかれた人は寄生されるがまま、本来持っている“善”や“良”などの領域を侵されても気付かない。  そんなこと、雅楽にはどうでもいいことなのだが。  雅楽は、一部から“守封師”の生き残りではないかと言われていた。  いや、今も尚言われている。  だが、雅楽に聞いてみると即答で違うと言うのだ。  悪さをしている妖怪は、雅楽の身体にある呪符によって、雅楽の身体へと封印されてしまう。  そして、悪さをしている人間は、これまた雅楽の中にある地獄へと送りこまれてしまう。  神でも仏でも、ましてや悪魔などでもない。  「呪われている、ただの人間だ」  それが、雅楽の言葉だ。  この世には、理解しがたいことがあり、説明できないことがあり、受け入れられないこともある。  その1つが、雅楽という存在。  「俺だって暇じゃないんだ。いい加減、どいつもこいつも大人しく生きていてほしいもんだ」  笑わなければ同情もしない。  全ての“悪”が消え去るまで、彼は何処にも行くことは出来ない。  今日も明日も明後日も、彼は笑わず、涙することもない。  もう一度空を仰ごうとした雅楽だったが、今度は自分の右目を隠している髪の毛によって邪魔されてしまい、またしても見ることが出来なかった。  雅楽は諦め、耳を澄ます。  そうすればほら、聞こえてくる。  闇に堕ちていく魂の音も、醜い欲望がぽろぽろと落ちている音も、蔑む音も、嘲笑う音も、そして、“善”が“悪”に飲み込まれていく音も。  その音はあまりに静かで、風鈴の音のように綺麗なものだが、欲が纏わりつき闇が絡んだ風鈴の音は、雅楽にとってはとても耳障りな音なのだ。  だからこそ、一秒でも早く封印したい。  これもまた、雅楽の欲なのかもしれない。  ―チリン・・・  何処かでまた、その音が聴こえてくる。  雅楽は目線だけを動かすと、音が聴こえてきた方へと歩いて行く。  そこに近づくにつれて、雑音のような風鈴の音が大きくなって聞こえてくる。  ―早く消えろ。五月蠅い。  雅楽もまた、ただの人間なのだから。  「お前、誰だ?」  「俺は雅楽。お前を封印する」
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