優しい記憶は朱をまとう

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体が透けているように見えて、ついきいてしまった。 「おじさんは幽霊なの?」 言いながら、私は健人の手をギュッと握った。 おじさんは少し笑ったようだ。 「そのようなものかな。私は100年以上前にここで農場の管理人をしていたんだよ。」 「管理人さん?」 私は聞き慣れない言葉を繰り返した。 「でも、ここらへんに農場はないよ。」 健人がわけ知り顔で言った。 「そうみたいだな。私が生きていた頃は、このあたり一帯は大きな農場だったのだ。牛も馬も羊もいて、緑がたっぷりあって、広々とした農場でみんな笑顔で働いていた。」 昔を懐かしむように目を細めた。その頃の風景を思い起こしているのだろうか。 「ふーん。今はこんなにお店もたくさんあって都会になっちゃったよ。」 健人は張り合うように言ったが、私は少し寂しそうなおじさんが気になって、 「おじさんが生きてた頃がどんなふうだったのか、もっと教えて。」 ついそう言っていた。怖さはなかった。私たちに向けるおじさんの笑顔が優しかったからかもしれない。 「色々なものが変わってしまったが、空と紅葉は私が生きていた頃と同じだな。」 眩しそうに懐かしそうに空を見上げながら、おじさんは話し始めた。 問わず語りのようなおじさんの話に引き込まれ、私と健人は、不思議なおとぎばなしを聞いているような気持ちで聞き入っていた。 100年以上前、この場所に農場を作ることがどれだけ大変だったか、その時代の風景がどれほど美しかったか、おじさんたち農場で働く人々がどんなに充実した日々を過ごしていたか、5歳の私たちにもその当時のキラキラした風景が目に浮かぶほど、おじさんの言葉は鮮明だった。言い回しこそ古めかしかったが、おじさんは話してみると意外と気さくで、話の途中私たちが分からない言葉を聞き返しても、楽しい例えを交え丁寧に教えてくれた。 30分もたった頃だろうか。 「茜ー。帰るわよー。」 「健人ー。どこにいるの?」 2人の母親が探しに来た。 「今行くよ!」 健人が参道の入り口に向かって一言声を張り上げて、おじさんに向き直った。 「おじさんは明日もここにいる?」 「明日ここに来たら、またおじさんに会える?」 私と健人は同時に問うた。 「どうかな。明日いるかもしれないし、数年後になるかもしれない。こんな風に紅葉を眺めていられる時間はいつもわずかしかないのだ。」 おじさんも心なしか寂しそうに見える。 「もう会えないかもしれないの?」 健人は泣きそうだ。多分私も同じような顔をしていたのだろう。 「いつになるか分からないが、またこの時期に会えるような気がする。君たちの成長を楽しみにしてるよ。」 おじさんの笑顔に元気づけられて、私と健人は後ろ髪を引かれる思いで朱色の参道を後にした。 2人とも、幽霊のおじさんに会ったことは誰にも言わなかった。幼いながらに誰かに話しちゃいけないような気がしていたのかもしれない。おじさんのことは、2人だけの秘密だった。しかし、その後も紅葉の時期になると健人と一緒に、時には1人で大山参道に足を向けたが、おじさんに会えることはなかった。 小学校に上がり、さらに中学生になり、その頃になると、管理人のおじさんが実在の人物であろうことも分かった。おじさんに会った参道の奥には那須野が原開拓に尽力しこの地に大規模な農場を持った大山元帥の墓所がある。おそらくおじさんはその農場の管理をしていたのだろう。その推測は一時的に私と健人の間で盛り上がったが、2人とも勉強や部活、友達関係と、忙しい日々を送る中、会話も日常のものに終始することが多くなり、いつしかおじさんについて話題に上ることは少なくなっていった。 中学卒業後、私は地元の高校から県内の大学に進み、今は実家のアスパラ農家を手伝っている。健人は進学校に進み都内の大学へ、その後税理士を志して都内で働いているときいている。 中学卒業以来、健人には会えていない。
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