<第二十八話・琴>

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<第二十八話・琴>

 ああ、人は慣れる生き物だというのなら、痛みにだって慣れてくれればいいというのに。琴子は恨めしげに、己の潰された右手へと視線を下ろした。もはら掌の形どころか、腕の先に崩れた肉の塊がひっついているだけになっている、それ。左手も同様の状態だ。いつまでも痛いまま、苦しいまま変わることはない。踏み出すたびに痛みが脳髄を駆け巡り、しゅうしゅうと食いしばった歯の隙間から息を漏らす有様だ。 ――そういや、痛みって、唯一人間が慣れないもの、なんだっけ。そんなことどっかに書いてあったような、気もする。つか……よく考えたら、痛みって危険信号なわけだし……慣れちゃダメ、なのかも。  それでも、どうせ死ぬのだから、痛覚神経だけ都合よく死んでくれてもいいのに、と思ってしまう。ゆっくりと洞窟の緩やかな坂を下りながら、霞む視界の端でそう思う。 ――美園。ねえ、美園……テレパシーってやつなんか、きっとあたしにはできないんだろうけどさ。自己満足で、ちょっと語りかけてみるけどさ。  走馬灯なのかもしれない、と思う。なんてわかりやすいのだろう。歩きながら、痛みを紛らわすように、琴子は美園の顔を思い浮かべている。彼女との思い出を、繰り返し脳内に描いている。 ――あたしね、実のところね。……あんたに、めっちゃ、感謝してたのよ。あんたがいなけりゃ多分、あたしは当たり前のように一人だったしさ。  空気を読むのが、苦手だった。特に、誰かと食事に行くことが苦痛で仕方ないのが琴子であったのである。中学、高校で、みんなとどこかのレストランで打ち上げをした時などもそう。空気を読んで、みんなのメニューを聴いたり、飲み物を注いだりすることが殆ど出来ないのが琴子だった。理由は単純明快、琴子が人並み外れて食いしん坊だったからである。  食事が運ばれて来ると、会話も注文も忘れてずっと食事に集中してしまう。そして、とんでもない量を食べてしまう。何故かあまり太らない質だったものの、それがかえった周囲には不快感を与える結果となっていたようだ。今から思うと、いっぱい食べても太らない琴子への嫉妬もあったのかもしれない。  琴子はどこに行っても言われた――あんたと御飯食べても全然楽しくない、と。
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