<第九話・名>

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<第九話・名>

 結局、到着したのは日も随分傾いた時間になってしまった。てらてらと山の稜線に落ちていく夕焼けを見ながら、美園は今日は泊まっていくしかないと決意する。今からさくっと話だけ聴いて自宅に帰ることも不可能ではなかったが、せっかくここまで来たのに簡単な聞き込みだけして帰るなんてあまりにも勿体無いではないか。 「そうそう、その部長ってのが本当に腹立たしいんですよ!あたし達一生懸命レポート書いたのに、霊能力とやらがあるからなのかしらないけどめっちゃ馬鹿にしてくれちゃって!」 「あらら、それはイヤね。ほんと、女の子に優しくするってことができない男は嫌だわ」 「ですよねー」  祖母の家で、すっかり琴子は祖母の真知子と意気投合して話を弾ませている。台所で晩御飯の準備をしていながら随分と楽しそうだ。そういえば、どっちも長話と長電話が大好きだったなと思う美園である。あの様子だと、すっかり自分達が本来此処に来た目的などすっかり抜け落ちていそうだ。単なる里帰りになってしまってもいいものか――いや、なんかもうそれもそれでいいや、と思いつつある自分もいるにはいるのだが。  久しぶりの笹下村は、とにかく空気が違う。鼻から大きく息を吸って、胸いっぱいに深呼吸。田舎は空気が新鮮だというのは事実で、実際この村に来るといつも思うのだ――ああ、余計な臭いがしない、と。  そう、新鮮というのは。普段何気なく嗅いで、どこかで慣れてしまった不快な臭いの多くを嗅がずに済む、というのが最も大きなところなのではなかろうか。排気ガスの臭いや煙草の臭い、他にも行き過ぎた香水やら加齢臭やらなんやら。都会暮らしが長いので、いつもはもう慣れてしまって気付くこともないが、むしろそういう臭いがしなくなったところで、普段の自分が無意識に息を詰めていたことに気付くのである。  微かな土の臭いと草の臭い――そしてどこからか漂ってくる、近所の家が作っている煮物か何かの美味しそうな臭い。  そういったもの以外に、余計な臭いが一切しない。そのなんと気持ちよく、清々しいことであるか。天気がいいのも良かった。とろとろと溶けるような夕焼けが、段々美味しそうな蜜柑か何かに見えてきて仕方ない。どうやら、結構しっかりおにぎりを食べた筈のに、もうすっかりお腹は夕食心待ちモードに入っているらしかった。 ――といっても、あの様子だとしばらく晩御飯は出てきそうにないなあ。
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