<第二十二話・焔>

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<第二十二話・焔>

 例えば“他の人には見えないものが見える”能力があったとして。  見えているそれが“幽霊”の類であると、一体誰がどうすれば確信できるというのだろうか。なんせ、自分以外の誰にも見えないのである。その正体を立証するのはあまりにも困難だ。新倉焔にとってもそれは変わらない。自分が見えているものが、果たして世間としてはどのような存在であるのか、どういう解明がなされるべきものであるのか。調査するのは、けして簡単なことではなかったのである。  自分がおかしいのか、世界の方がおかしいのか。  自分の世界にしか存在しないものを、明確に線引きして仕分けることはあまりにも困難だ。 『どうしたの、焔君。みんなと一緒に遊ばないの?』  幼稚園の頃。休み時間になれば、活発な子供達は外へと駆け出して行き、お絵かきなんかが好きな子は自由帳とクレヨンを取りに走る。焔はどちらかといえば前者で、外で遊ぶ方が好きな子供だった。お絵かきが嫌いなわけではないが、根本的な問題として体を動かす鬼ごっこの類が好きだったのである。  けれどその日は、外へみんなと一緒に走り出しかけて――そこで足が、止まった。先生は不思議がって、焔の傍に立って声をかけてくる。何か体の調子が悪いとか、何か気になることでもあったのかと心配したのだろう。  実際、それは間違いではなかった。焔はそれ以上前に進めなくなり――次の瞬間、勢いよく首を振っていたのだから。 『いい。……きょうは、おえかき、する……』  それは、年中のクラスに上がったばかりの頃。幼稚園に通ったことのある者ならわかるだろうが(あるいは幼稚園に子供を通わせたことのある親も知っていることだろう)、幼稚園というのは年長になるにつれクラスも人数も増えていくのが基本だ。というのも、年少クラスから幼稚園に子供を通わせる親がさほど多くないからである。場合によっては、年少程度の年までは保育園の方に子供を通わせたがる親も少なくない。理由は単純明快、幼稚園と保育園では通わせる目的が違うから、預けられる時間が異なるからである。  保育園の方が子供を預けていられる時間は圧倒的に長い。そして、こちらは子供の“小学校に上がるまでの勉強”ではなく“子供達を安全にお世話する”方の意図が強い施設だ。親が共働きの家庭ともなれば、幼稚園の時間だけでは仕事を終わらせて迎えに行くことが難しい。基本的に幼稚園に通わせられる親は、片方が専業主婦をやっているか、あるいは短時間のパートや深夜勤、在宅ワークをしているかに限られるのではなかろうか。  とにかくだ。焔の母は普通に専業主婦をやっていたということもあって、特に問題もなく年少から幼稚園に通わせて貰えていたわけだが。  年中に上がったそのクラスには、ある違和感があったのである。先生がおかしいわけではない。ただ新しい教室には、何かおかしいと感じるものがあったのである。残念ながら“何がおかしい”のかをうまく説明できる術が、幼い焔にはなかった。何か、うっすらと暗いモヤのようなものが部屋全体にかかっているような、空気が悪くなりすぎて色がついて見えるような、そんな感覚だったとでも言えばいいだろうか。部屋の四隅から“それ”は噴出し、そして一人の子供に集中するように向かっていたのである。  今はもう、その子供が女の子であったか、男の子であったかもよく思い出せない。顔もあまりにもおぼろげだ。まるで焔の記憶からそこだけがぽっかりと抜け落ちてしまったかのよう。比較的幼い頃から記憶力は良かった自負はあるし、実際他の子供や先生の顔ならばいくらでも思い出せるというのに、だ。
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