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「ユキくん、ただいま。」 玄関の扉を開けて、香織が帰ってきた。 長い歳月を重ねてきたであろうこの古びた小さなアパートは、広くもなければ綺麗でもない。 しかし、こと『生活』というものに関しては妙にしっくりとよく馴染んだ。 俺と香織はこの街の景色のひとつのように ふたり身を寄せ合って暮らしている。 「ごめん、遅くなっちゃった。 すぐに夕ご飯の支度するからね。」 香織は帰ってくるなりキッチンに向かった。 疲れているだろうし、少しは休めばいいものを。働き者の彼女は俺の視線に気が付いても、いつもニコリと微笑むばかりだった。 香織は優しい。 いつだって、優しすぎるのだ。 彼女の中の優先順位に彼女自身はいない。 香織という人は昔からそういう女性だった。 それはたしかに彼女の大きな魅力のひとつではあったのだけれど、同時に俺にはひどく哀しいことに思えてならなかった。 香織はいつだって優しい。 でも、そんな香織に対して 同じだけ優しく出来る人間を俺は知らない。 窓から差し込む斜陽は何かもの言いたげに冷たい床を細く照らす。 キッチンからはトントンと何かを切る音がして、隣の部屋から微かに漏れるテレビの声と重なった。 香織の後ろ姿を眺めて、思う。 俺が守ってあげられたなら。 彼女が年老いていつか最期を迎える時、 愛していると抱きしめてあげられたのなら…。 しかしそれはいくら願っても叶わぬ夢なのだと俺はよく知っていた。 自分はいつか彼女の前からいなくなる。 それが遠い未来の話なのか すぐに訪れる未来なのかは分からない。 それでも否応なしに、その日は確実に訪れる。 「おまたせ。お腹すいたでしょう?」 顔を上げると、香織がキッチンから皿を持って戻ってくるところだった。 俺が彼女の名前を呼ぶと、香織は「なあに?」と小さく笑う。 香織は俺の声を音声として認識はしているが、 言葉として理解しているわけではなかった。 手を伸ばせども届かない距離は、まるで遠くに浮かぶ月のようで、こんなに近くにいるはずの彼女は、愛しいと思えば思うほど、段々と遠い存在になっていく。 昔彼女が話してくれた人魚姫の話を思い出す。 今ならその気持ちがよく分かる。 俺は何を差し出せば 願いを叶えてもらえるのだろう。 誰よりも優しい彼女のために 一体何をしてやれるのだろう。 俺の気持ちなど露知らず テレビから流れる声に、香織が笑った。
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