優しい嘘が消えたあと

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 セスは言うことを聞かない子どものようにただ首を左右に振った。山の神がこんなことを望んでいるのだとすれば、神とはどこまでセスを嫌っているのだろう。  決して欲深いわけではないつもりだ。家族とクシュナン、たったの二つだ。ほとんどの人が持つもの、声も友人も、他人からの信頼や尊敬も何一つ持たず、だからといって世を恨むわけでもなく、そっとあきらめて生きてきた。そんな人生でたった二つだけの大切なものですら、運命はセスにどちらか一つだけを選べと強いるのか。  抱き合ったまま、セスもクシュナンも一歩も動けなくなった。ただ、時間が止まればいいと、このままこうして抱き合ったまま、永遠に朝など来なければ良いと願う。  長い時間が経ったかもしれないし、ほんの短い間だったのかもしれない。ぎしり、と扉がきしむ音がした。カイがまたのぞきに来ているのかもしれないと、セスは緊張で体を固くする。だが、闇の中に現れた人影は、ゆっくりと小屋に入ってくると口を開いた。 「いいから、逃げろ」  セスは自分の目を疑うが、間違いなくそれは兄だった。兄が自分とクシュナンの前に現れ、逃げろと言っているのだ。  スイはクシュナンに歩み寄ると力任せに足首を引き、手にした鍵を使って足枷を外してしまう。鉄柱側の鍵は万が一のためにとセスに渡されていたものの、もうひとつの鍵は置き場所すら教えてもらえていなかった。その鍵を持って兄がここに来て、完全にクシュナンの拘束を解いたのだ。セスは目を丸くして兄を見る。 「セス、おまえが何を考え何に悩んでいるかはわかっているつもりだ。でも、私のこともみんなのことも今は気にするな。この男を連れて、夜のうちにできるだけ遠くへ逃げろ。そう長く隠し通すことはできないだろうが、おまえならば追っ手を撒くこともできる」  スイはうっすらと笑みを浮かべているが、その表情は明らかに疲れている。疲れ果てて投げやりになり、長の跡継ぎとしての立場も、集落の若者を束ねる立場からも目をそらしている、そんな風に見えた。  セスは一切身動きができない。クシュナンを死なせたくない。でも、こんなにも疲れ果てて、それでもなんとかセスを守り、セスの幸せを優先しようとしてくれる兄を犠牲にすることもできない。  暗闇の中、セスはスイに自分の気持ちや迷いを伝える手段を持たない。だが、クシュナンが代わりに口を開いた。 「おまえ、セスがそんな風に言われたところで簡単に家族を見殺しにできるような奴じゃないって、わかっているんだろう」  図星を突かれた兄は、声を荒げる。 「だったらどうしろと言うんだ! 弟はおまえに心を許している。おまえに心を奪われている。そのおまえをセスから取り上げる役目を私にやれというのか。……だって、はじめてなんだ。セスがこんなにも……」  だんだん小さくなった声はそのうち闇に溶け、沈黙が場を覆う。  やがて雲が晴れたのか、月の明かりが窓から室内に差し込んだ。白く淡い光に三人の男の姿が照らし出される。そのときクシュナンはふと輝く月を見上げ、思い出したように言った。 「もしかしたら、ひとつだけ方法があるかもしれない」
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