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見てはいけないものを見た。それは本能的な思いだった。彼に気づかれる前にここをそっと去らなければいけない。そろそろと後ずさりしようとしたところで何かを踏みしみしめる感触。続いて足下でポキリと枝の折れる音がする。
褐色の男が顔を上げ、鋭い瞳がセスの姿をとらえる。涙に濡れた目は真夏の空よりももっと深い青色をしていて、吸い込まれてしまうのではないかと思った。
「誰だ?」
問われたセスは一気に現実に引き戻され、驚きと恐怖で全身が硬直する。怪しいものではないこと、敵意はないことを伝えたいのだが、口がきけないから男にそれを告げる術がない。だったら逃げるしかない。そう決めたところで、しかし思いのほか素早い動きで男はセスに歩み寄り腕をつかんだ。
「聞こえなかったか。おまえは誰だと聞いているんだ」
問いかけは繰り返される。さっきよりも強く、激しい苛立ちをにじませた口調。静かに涙を流していた姿とは別人のように男は険しい表情を浮かべていた。
セスはぱくぱくと口を開け閉めしながら、拘束されていない方の手で自らの唇を指し示した。どうにかして彼に自分が口をきけないのだとわかってもらえないだろうか。だが、男はますます眉間の皺を深くしてセスの腕をつかむ力を強くする。
恐怖で体中が震え出す。彼は怒っているのだろうか。泣いているところを見てしまったからだろうか。一体何をする気なのか。……だが、セスが怯えきっていることに気づくと、褐色の男は少し困ったように手を離した。
「そう怯えるな、傷つけるつもりはない」
この男は悪い人間でも凶暴な人間でもない。そう確信したセスは安堵した。それから改めて自分の口と喉を交互に指さし首を左右に振ってみせた。その動作に男はようやくセスの言いたいことを理解したらしい。
「なんだ、おまえ口がきけないのか?」
セスはうなずく。そして「いったいあなたは何者か」と訊ねようと男に指先を向けようとした瞬間、背後から近づいてくる声に気づいた。
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