呼べない名前

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呼べない名前

「おい、セス」  神の使いの小屋から戻り屋敷に入ってきたセスを見つけたスイが駆け寄ってきた。セスが手にした盆をのぞきこみ、すべての器が空になっているのを確かめるとその顔に笑顔が浮かぶ。 「調子がいいみたいだな」  セスは首を大きく縦に振った。話したいことは他にもあるが、両手がふさがっているので筆談ができない。伝えたいことを伝えられずにもどかしげな表情を浮かべる弟の頭をぽんぽんと叩くとスイは言った。 「そう焦るな。仕事が上手くいっているならそれでいい。俺もこれから出かける用事があるから、話は後でゆっくり聞く」  将来の(おさ)の座を約束されているスイはいつも忙しそうにしている。少し前までのセスはそんな兄の姿をたくましくも寂しく感じていたところだが、最近ではそうでもない。  父は昼間は自室にこもって仕事をしているか集落の人々と会議をしているかのどちらかで、スイも留守にするとなればセスの行動を気にかける人間はここにいない。そして、誰もセスの行動を気にしないということは、頻繁に〈神の使い〉の小屋へ行ったところで不審がられはしないということだ。セスは自室に戻るとはさみを手にして再び屋敷の裏口を出た。  理由はわからないが、〈神の使い〉は祭りの日までは世話役以外の集落の人間との接触はおろか姿を見られてもいけないという決まりになっている。だから世話役は身元がしっかりして秘密を守れるような人間に限られ、結果として代々長の家の人間が務めているのだという。  (おさ)の屋敷の敷地は家の裏側に広がっていて、ちょっとした森や小川の先は具合のいいことに崖に囲まれている。要するに広大な裏庭に作った小屋に閉じ込めておきさえすれば、集落の他の人々はどれだけの好奇心を持っていたところで〈神の使い〉の姿を見に行くことはできない。  歩き慣れた小道を抜けるとすぐに小屋が見えてくる。扉を叩くのは三度、返事がないのはいつものことだが、最近ではセスはそれを「入室を拒否しない」という答えなのだと都合よく受け止めることにしている。
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