北上する学者と治癒師のプレリュード

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 エリシア・フェレンドは帰る場所を失っていた。  戦役の後、フローレンス王国の復興は少しずつ進んでいた。  今、王都には、その防衛戦の立役者であり、王国復興の象徴として、人々から畏敬の念を込めて見上げられる人物がいた。その爽やかな容貌と美しい弁舌で、熱烈な人気を集めている、その人物の名は『勇者レオン・アッシュガルド』――エリシアと同じレヴァロンの出身であり、そして、エリシアの元婚約者。  一年前、西方の国境を越えレヴァロンへと攻め入って来たルーベリック帝国軍から逃げるように、そして、戦うレオンを支えるために村を旅立った。レオンに手を引かれて。  それからの一ヶ月間。戦役が終わるまでの日々は忘れたくても忘れられない時間だった。野心と使命感に駆られて突き進むレオンの背中に必死で追いすがる日々。でも、あまりに多くの人々が死に、あまりに多くの悲しみが世界を覆う中で、エリシアは身動きが取れなくなっていった。  それでも、先に進み続けるレオンは、結局、彼女を置き去りにした。エリシアは捨てられたのだ。  自分を捨てた勇者レオン・アッシュガルドは救国の英雄となり、王都では公爵令嬢との縁談が進んでいるという。エリシアは、家族も故郷も――たった一人、自らの人生を捧げる覚悟でついていった恋人をも失った。  そして、その元恋人は、この国の「希望」のように掲げられているのだ。  ――遠くへ行きたい。  一度は戦火に巻き込まれ、失いかけた命だった。  それを生きながらえさせることに、どれほどの意味があるのかも分からない。それでも、生きるのなら、辛いことばかりを思い出させる場所からだけでも遠ざかりたかった。    現実から逃げるように、何かを探すように、エリシアは王都を離れた。そして、旅に出た。あんなに嫌だった旅に出た。故郷に向かう気にはなれず、やがて、流されるように辿り着いたのが、北方の港湾都市ブーレンだったのだ。  こんな話、見ず知らずの男性に話すなんて、今日の自分はどうかしているのではないか、とエリシアは思う。それでも、エリシアは胸の奥に溜まった澱を吐き出すように、出来るだけ全部をメルティに話した。  できるだけ、落ち着いて、感情的にならないように。  それでも、少しだけ嗚咽はこみ上げてきた。 「……大変だったんだね」  話し終えたエリシアの頭をメルティは優しく撫でる。  それは久しぶりの感覚で、エリシアはその暖かさに顔を上げた。 「メルティさんは、――驚かないんですか? その、勇者――レオン・アッシュガルドの話とか。酒場で出会った治癒師(ヒーラー)が勇者の元恋人だったなんて、荒唐無稽じゃないですか?」 「あ〜、そうかな? もちろん勇者レオン・アッシュガルドのことは知っているよ。有名人だしね。ん〜、でも、僕はどっちでも良いかなって思うんだ」 「――どっちでも良い?」  エリシアが不思議そうに首を傾げると、メルティは一つ頷いた。 「うん。彼が今、勇者と呼ばれていようが、なんだろうが、今の君――エリシアさんはエリシアさんだし、酒場の看板娘で、人を癒せる治癒師(ヒーラー)で、素敵な女性だと思うんだ」 「素敵な……女性?」 「うん。僕はそう思うよ。それにきっと、君はその辛い旅路で、色んなことを見てきて、聞いてきて、体験してきたんだと思う。その知識や、それを通して学んだことは絶対に無駄じゃない。エリシアさんの中に息づいていると思うんだ」 「……息づいて?」  不思議そうに青年を見上げるエリシア。  その全てを肯定するように頷くと、メルティは「まぁ、単純に、僕が有名人のゴシップ話が好きじゃないっていうのもあるんだけどね」と悪戯っぽく笑ってみせた。何故だか、その微笑みはエリシアの頬にも伝染していく。 「メルティさんは、どうして旅を?」    右手の下の傷はもう半分ほど癒えていた。 「僕は旅の学者だからね。足を運んで、フローレンス王国の皆が知らないことを、明らかにして、知識を整理するのさ。誰も知らないことを知る。そして、それを皆に伝えるのが学者の使命」 「学者って、学校の先生とは違うんですか? 学校の先生が旅をするようなイメージは無いんですけど?」 「あ〜。そこね。学校の先生っていうのは大体、既に知られていることを子どもたちに教える職業さ。学者は違う。まだ見ぬ世界を探求するのさ。遠くへ――僕らの世界認識の更に先へ。僕はもっと『遠くへ行きたい』のさ」  ――遠くへ行きたい。 「次はどこに行くんですか?」  エリシアは視線を彼の太腿に添えた右手に向けてながら、尋ねる。  なぜだか、胸は高鳴った。  メルティは顔を上げて、窓の外へと視線を飛ばした。 「北方へ。ノルド領域へ行くんだ」  思わぬ答えに、エリシアは顔を上げる。
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