北上する学者と治癒師のプレリュード

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北上する学者と治癒師のプレリュード

治癒(ヒーリング)の魔法を使えるって、……本当?」  カウンターまでやって来た細身の男は、声を潜めるように話しかけた。  その女性は、こんな酒場の店員にしては、美しい容姿をしている。  料理を出そうと盛り付けの仕上げをしていた彼女は、驚いて顔を上げた。 「あの、……フローレンス王国の方なんですか?」   褐色の髪の女性――エリシア・フェレンドが驚いたのは、蛮族のテーブルに居たはずのその青年があまりにも流暢な言葉を喋るからだった。  エリシアの慣れ親しんだ人間の言葉を。 「あ、うん。はい、そうです。メルティ・フィン。旅の学者です」  その抑揚は、どちらかと言えば西方の(なま)りを感じさせた。  懐かしいリズムは、故郷の記憶を呼び起こさせる。 「西方のご出身なんですか?」  両手につまんだピクルスを皿の上に満遍なく散らしながら、エリシアは小さな声で呟く。手を休める訳にも行かないし、フローレンス王国の言葉をあまり大きな声で話すと周りの目も気になる。 「あ、よく分かるね。そうだよ。城塞都市エルドラより少し西かな? まぁ、名も知られない小さな村だよ」  エルドラは西方最大の都市だった。先の戦役で大量破壊兵器が用いられて、その人口のほとんどを失った。現在は、ルーベリック帝国の占領下にある。 「私が、レヴァロン出身なので……。少し、話し方? みたいなのが懐かしく思えて――」 「レヴァロン! 懐かしい。『西の(はて)の村レヴァロン』かぁ! 近いなぁ! 一度だけ行ったことがあるよ。随分と昔だけど」 「本当ですか!」    エリシアは思わず目を見開き、頬も緩める。懐かしい。  故郷から遠いこんな土地で、自分の故郷を訪れたことのある人と出会えるなんて。  カウンターの奥からエリシアを急かす男の声がした。「ごめんなさい。ちょっと運んできますね」と両手に食事の盛られた木皿を持ち上げてカウンターを抜けた。  青年は手元のジョッキを傾けると、振り返り、その姿を目で追う。  噂に聞いていた治癒師(ヒーラー)。酒場で働いてはいるものの、その容姿や、立ち居振る舞いは、貴族の娘のようだ。もしかしたら本当にそうなのかもしれない。こんな時代だ。元貴族の娘が働いていてもおかしくはない。  少女は、テーブルまで皿を運び、ノルド地方の蛮族たちの言葉で、男たちに片言の説明を与えると、幾度か頭を下げて戻ってきた。 「ごめんなさい。お待たせしました」 「全然大丈夫だよ。酒場で働くのは大変だね」  そう青年が言うと、少女は「慣れました」と微笑み返す。  それでも、その微笑みは弱々しくて、どこか淋しげだった。  少女は自らの名前を「エリシア・フェレンドです」と名乗った。 「でも、少し驚きました。王国のお客さんは減る一方なので」 「そうみたいだね」  一年前に終わった戦役――ルーベリック帝国が空中要塞を浮かべて王都まで攻め入った戦争で、フローレンス王国は領土の半分以上を失った。  フローレンス王国の西半分はルーベリック帝国の支配下に入り、北方の一部はノルドの蛮族によって占領された。その状況は一年経った今でも変わっていない。  エリシアの故郷であるレヴァロンや、その地方最大の都市であった城塞都市エルドラが今どうなっているのか、彼女は未だによく知らずにいた。  フローレンス王国の北方最大の都市だったこの街――港湾都市ブーレンも今では蛮族たちのものとなった。ノルド領域の蛮族たちとは百年以上の長きに渡り国境で押し引きを繰り返す紛争状態にあったが、先の戦役で、フローレンス王国側は魔力網(マナグリッド)を失い、防衛力を著しく低下させ、その混乱乗じて蛮族が一気に攻め入ったのだ。  王都に次ぐ繁栄を誇った港湾都市ブーレンも、今や人の言葉も喋れず、意味の分からない言葉を喋る、蛮族たちの街へと変貌していた。
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