1.宇津美万吉の憂鬱

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「……俺、死んだの?」  開口一番、一に向かって放った言葉はそれだった。万吉にとっては真面目な話である。自分も幽霊になってしまったのかと、机の上に置かれた、自分で買った筈の菊の花が、やけに不吉に見えた。  ところが、一は軽く笑ってから言った。 「死んじゃいないよ。死んでたら、頭から血は出ないと思うぞ?」  確かに万吉の額には、大きな絆創膏が貼られていた。ガーゼには少々血が滲んでしまっている。 「ぶつけたってより、切ったって感じだね。多分自転車のペダル辺りで。ま、石段から転げ落ちた割に怪我したのはそこだけだから、安心しなよ、先生?」  からかうように言われて、万吉は思わず目を逸らした。聞かなかった事にしようとしたが、旭がその言葉に食い付いてしまった。 「先生? おじさん、先生なの?」 「この人は僕の高校時代の友達なんだ。宇津美 万吉。お医者さんなんだよ」  そっかぁ、と旭は言うと、悪戯っぽく笑いながらこんな事を言った。 「お医者さんが怪我するなんて、可笑しな話だねぇ?」  けらけら一人で笑い出した旭を他所に、万吉は横になっていた身体を起こした。寝かされていた場所はソファだったらしく、身体に掛かっていた毛布を退かして、万吉は背もたれに寄り掛かった。 「……本当に、一なのか?」  御覧の通りさ、と一はまた微笑んだ。 「此処は僕の墓、兼探偵事務所」  此処が墓の中だって? 万吉はきょとんとして、部屋の中を見回した。  本棚に囲まれた部屋、立派な書斎であろうこの部屋が、墓の中とは到底思えない。まるで此処に住んでいるようではないか。 「……住んでるのか?」 「もちのろん」  ……当然か。 「僕も死んだ時はびっくりしたけどね。案外生きてた時と変わんないんだなぁって」  その言葉通り、彼の様子は生前と全く変わらなかった。いつも通りへらへら笑って、何の心配もない風にそこにいた。彼は本当に死んだのだろうか。死んだと思い込んでいただけで、此処に隠れて生きていたんじゃなかろうか。万吉にしては実に突拍子もない考えが浮かんだ。それくらいに一は、生き生きとしてそこにいた。 「それにしても、暫くじゃないか」  机を挟んで椅子に腰かけた一は、菊の花を肩に担ぐように持って言った。 「どうしたんだい、急に? 今日はお盆でも命日でも、お誕生日でもないよ?」 「……誕生日で菊なんか選んでくるか」  冗談を言うのもまた相変わらずだ。万吉も漸く調子を取り戻したのか、彼の冗談に溜息をつく余裕が出来た。 「……この春から、この町の診療所に勤める事になったんだ」  ぼそっと言ったその言葉に、一は目を丸くした。 「へぇ、そうかい! それは良かった! いつでも遊びにおいでよ」  目を細めた彼にそう言われたが、万吉の脳裏にはあの時群がっていた幽霊たちが思い浮かんでいる。何となくその事が心配になって、万吉は一に尋ねた。 「一、お前、此処で何やってるんだ?」 「何って、言っただろう? 探偵事務所だよ」  一は当然のように答えた。その次に、どうして? と言葉が飛ぶ。万吉は言いづらそうに視線を逸らして言った。 「……その、ほら、何かと大変じゃないのか。恨まれたり、とかさ……」  すると次の瞬間、一の大きな笑い声が響いた。万吉は驚いて、彼の方を振り返った。 「恨まれる? 幽霊が、幽霊に? そんな事ないよ」  一が言うに、頼まれる事は他愛もない事らしい。失くし物をしたから一緒に探して欲しいとか、隣の墓の子が好きになったから相談に乗って欲しいとか、単に世間話をしに来たりとか、要するに只の相談室さ、と彼は笑った。 「そんな大層な事件なんかないさ。まして死んでからなんてね」  あの時群がっていた幽霊たちが、一へのクレーマーではなかったという事を知って、万吉はほっとしていた。
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