9.金田一の追憶

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 目的の建物の陰に駆け込んだが、そこには誰の姿もなかった。  逃げられたのか……? しかし、どうして今の今までいたんだ。まるで見つけてくれと言わんばかりにうろうろしていたではないか……。  その時、芝生を踏みしめる別の足音がすぐ背後でした。 「やっと見つけてくださいましたね。待ちくたびれましたよ」  振り返ろうとした矢先、その首はぴたりと止まった。後頭部に硬い感触を得たのだ。しかし一には、背後にいる人物が誰か、既に見当がついていた。 「……物騒な事はやめましょう。僕は取引の大事な商品でしょう」 「商品? 違いますよ。――大事な被験者です」  一の頭に銃口を押し当てているのは、悟と取引をしていたクライアント――一夢だった。 「今度こそ成功しますよ。貴方が被験者になってくだされば、それが証明されます」 「薬に足りないものが分かったんですか」 「えぇ、足りないものは――」 「生きた人間の血」  言い当てた一に驚き、そして一夢は、流石ですねぇ、と笑った。  以前、春が一夢の薬を飲んで豹変した時、狼男のようになってしまったのは、本物の人間になる為の生き血が必要だったからだ。現に万吉の血を手に入れた彼はすっかり大人しくなった上、次の日には驚く程人間味を伴っていた。 「だから友邦さんに、吸血鬼の話を利用して万ちゃんの血を取らせたんですね」 「これは驚いた! 素晴らしいなぁ、名探偵!」  答え合わせを楽しんでいるかのような一夢の笑い声を背中で感じながら、一はポケットにそっと手を入れた。しかし笑いながらも、一夢は勿論それを見逃す筈はない。 「あっ、余計な事はしないでくださいね。そういう事されると、こっちも少し乱暴にならなきゃいけなくなるので」 「……僕たちの行く先々を監視していたんですか。だから僕らを襲うような人を配置して」 「監視はしていましたが、別に配置したつもりはなかったんです。結果的にそうなっただけであって」  友邦に万吉を襲うように頼みつつ彼の犯罪に手を貸したのは、彼が殺人を犯すところをたまたま発見したからだし、悟に相談を受けたのは、彼が一夢のやっている事を知っていて彼の方から頼んで来たからである。それを上手く自分の計画に繋がるようにしたまでだ。 「だったら、どうして友邦さんは、貴方の事を警察に……」 「捕まっても後で助けてあげるって言えば、わざわざ仲間を売るような事しませんよね?」  彼に微塵も悪びれる様子はなかった。寧ろ楽しんでいる。 「血っていうのもあんまり長持ちしないんでね。出来れば早めのご決断を」 「断ったら?」 「さっき言った通りです」  そう言うと共に、もう一度しっかり引き金に指を掛けた。  しかし一も余裕の表情だ。 「僕だって何の準備もしてない訳じゃないんですよ。此処にはペン型のビデオカメラがあります。だからこの会話は全部――」 「という、はったりですかな?」  驚いて言葉を飲み込んでしまった。無意識ではあるが、それが一夢の考えを決定的なものにしたのは言うまでもない。 「友邦さんは騙せても、私は騙せませんよ」  返す言葉が見つからず、一は唇を噛んだ。一夢はその様子に大層ご満悦だ。  一の性格は一夢も既にリサーチ済みなのだろう。思い付きで行動する事も計算に入れて、だから此処でわざわざ待っていたのだ。  彼にはもう、自分を連れ出す事しか頭にない。何とかそれを利用して……  その時、突然背中を突き飛ばされた。驚いてよろめき、漸く一夢を振り返ろうとする。ところが次の瞬間、胸のあたりに強烈な熱を感じ蹲った。 「うぅ……っ」  見るとそこには、いつの間にか一枚のお(ふだ)が貼りついていたのだ。 「言ったでしょう? 余計な事はしないでって。考え事もアウト。キンダイチ先生が悪いんですよ?」 「は……はは……僕は、そんな……」 「分かりやすいんですよねぇ、こーれ」  と言って、一夢は自分の頬に人差し指を立ててぐりぐりとやってみせた。それは、一がいつも考える時にやる癖だ。しかし今の一は火照る身体を押さえ込むのでいっぱいだったし、元々自分ではその癖に気付いていなかったから、一夢のしている事が一体何を意味しているのかなど考える余裕はなかった。  しゃがみ込んだ身体を持ち上げる事はもう出来ない。それどころか、最早平衡を保っている事すら儘ならなくなって、一はとうとう倒れ込んでしまう。 「あらら、少々強すぎましたね」  ゆっくりと一夢が歩み寄って来る。しかしもう後退る事も出来ない。覗き込んで来る彼に向かって睨みつける事も出来ない。 「さぁ、先生。お薬の時間ですよ」 「どうして……僕を……っ」  すると一夢は、微塵も動揺する事なく、にたりと笑って言うのだ。 「奥さんとお子さんに会いたいでしょう?」  ぼんやりした頭でも、その言葉だけははっきり意味を伴って一の元へと届いた。そしてそこに一瞬の揺らぎが生じた所為で、次の瞬間自分の口に飛び込んで来る薬をつまんだ一夢の手を拒む事を、すっかり忘れさせてしまった。
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