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杞憂だ。きっとそうだ。万吉は何度も何度もそう念じてやまなかった。どうせけろっと出て来て、いやぁ、迷っちゃってさ、なんて言うに決まってる。
吾郎も同じように考えていた。本当は声に出して、二人で馬鹿みたいに笑い合いたい。でもそんな事をしたら、自分たちの笑い声はこの暗闇に吸い込まれて消えていくだろう。それが怖くて堪らない。揺れる懐中電灯の光が何を照らし出すか分からず、それを追う事ですら怖い。
早く出て来てくれ! 旭君が泣きそうになりながらお前の事を心配しているんだぞ!
本当に迷っているだけだろうか、もしかしたら、何かに巻き込まれて……不安の浸食は何処までも加速する。
その時だった。
「おい、先生!」
突然背後で吾郎が叫ぶ。いよいよ疲れてきて、万吉が立ち止まり俯きかけた時だった。顔を上げると、吾郎は或る場所を指差していた。
彼の指先を辿り、懐中電灯を向ける。その光の先には――うつ伏せに倒れる人影があった。
彼らが思わず叫んだ名前は、一つだった。
慌てて駆け寄り抱え上げる。その顔は確かに、叫んだ名前の彼で間違いなかった。
「一! しっかりしろ! 俺だよ、ほらっ……!」
必死に呼び掛けると、一は目を瞑ってはいるが、微かに自分の意思で頷いているようだった。
「全く、心配かけさせおって……」
その様子を確認し、吾郎は安堵の溜息をついた。帰るぞ、と背を向きかけたその時、万吉の声が飛んだ。
「待って。……何かおかしい」
一は自分たちと再会した事への反応を一切しない。傍のトイレの壁に寄り掛かって、身体を上下に小刻みに揺らしている。
「……一、聞こえてるか? どうした?」
万吉の言葉に頷きはするが、言葉を発する事が出来ない。言葉を紡ぐのを、早すぎる呼吸が邪魔する。ゆっくりでいい、万吉のその言葉に頷いて、一は喉の奥から何とか言葉を絞り出した。
「……く……苦し……息が……出来……」
ひゅう、とか、ぜぇ、とか呼吸になりきらない雑音の混じる微かな発言に、二人は目を見開いた。薄々気付いてはいたのだが、その異変を確信したくはなかったのだ。しかし顔を紅潮させて頻りに酸素を求める彼を見て、自分の中での否定は打ち砕かれた。
「おい……一体何が……」
茫然とする吾郎を他所に、万吉は一に向かって落ち着き払った様子で声を掛けた。
「ゆっくり息をして。呼吸しすぎなんだ。吸う事より吐く事に集中して」
「はっ、はぁっ……で、出来ない……怖い……」
「慌てないで、ゆっくり。俺に合わせて」
そう言って、万吉はゆっくり息をしてみせた。一は瞼をこじ開けて、彼と一緒に呼吸をしようと試みる。最初は肺の中で暴れ回っていた呼吸も、次第に落ち着いてきた。
「よし、その調子……」
「はぁ……はぁ……すみま、せ……」
その時、一は目の前の万吉に倒れ掛かって来た。
「ちょっ……! 一!」
突然の事に驚き慌てた万吉だったが、一は彼の胸で落ち着いた寝息を立てて眠ってしまっただけのようだ。
「先生、まさか、こいつ……」
考えたくもないのだろう、吾郎はそこから先を口にしようとはしない。万吉にも分かっている。
過呼吸に陥った事や――彼の頭から流れる僅かな血が、何を意味しているのか。
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