9.金田一の追憶

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*** 「よーし、出来た」  一花はそう言って、一着の小さな服を掲げた。それは彼女が生前飼っていた仔犬に着せていた服だ。そこに『POARO』と刺繍を施して、駆け寄って来たポアロに着せてやる。  ポアロは最初嫌そうに身を捩ったが、それを身に纏った時には嬉しそうにくるくると回り始めた。それからちょこちょこと短い足で一生懸命駆けて、きっと一緒に喜んでくれるであろうご主人様の所へ向かう。 「わんわん!」  ところがその甲高い鳴き声に、旭が目を向ける事はなかった。すっかり疲れて、ソファの上で眠ってしまったのだ。 「しー、起きちゃうでしょ」  一花が毛布を抱えてやって来たのを見て察したのか、ポアロは寂しそうに口の中で小さく鳴きながらも、それ以上吠える事はしなかった。  そっと毛布を掛け、彼の前にしゃがみ込む。すうすうと落ち着いた寝息を立てているが、その目は赤くほんのり腫れていた。  このカフェに連れて来るまで、それはそれは大変だった。一の墓石にしがみつき、此処で待つと言って聞かなかったのだ。全員で此処に集まるって事になってるから、と何とか宥めたは良いものの、旭はカフェに入ってからもむすっとして、不安から来る涙を抑えるのに必死になっていた。 「ハナさん」  不意に背後から声を掛けられ、一花は旭の傍から立ち上がる。カウンター席に座っていた鏡の万吉が、コーヒーのおかわりを求めたのだ。  一花は早足でカウンターの向こう側へ入ると、てきぱきとコーヒーを淹れる準備を始めた。 「運転ご苦労様」 「どーも」  すると、座っている右足の裾が、何かに引っ掛かったように突っ張った。見ると、ポアロが遊んで欲しそうに大きな瞳で自分を見つめていた。 「おー、どうした? お前もコーヒー飲みたいのか?」 「ちょっと、駄目よ」 「冗談ですって。なー?」  そう言ってポアロを抱き上げると、嬉しそうに顔を舐めて来る。愛くるしいと思っていたが、ポアロは執拗に口元を舐めて来たので、自分への好意ではないと気づき、万吉は少々がっかりしたようだった。 「あんまり砂糖の入れすぎも良くないわよ。折角のコーヒーの味が台無しじゃない」 「そこを上手く淹れてくれるのが、ハナさんじゃないですかぁ」  そう言って子供のように笑う万吉に、一花は困ったように溜息をつきながらも、傍にはしっかり砂糖を準備していた。 「……こいつ、確か捨てられていたんですよね?」  抱き上げたポアロを撫でながら、万吉はふとそう溢す。一花もコーヒーに目を落としつつ、えぇ、と返す。ポアロはそんな空気にも気付いていないのか、舌を出してにこにこしている。 「強いなぁ、お前たち」 「え?」  彼が溢した言葉に、一花は顔を上げてきょとんとした。 「良かったな、旭君に見つけてもらえて」 「……旭君の事、知ってるの?」  すると、万吉は一花に初めてもう一人の自分がしている事を打ち明けた。 「……本物の僕が調べているんです。彼の事。でも有力なのは事故の記録だけ。一も根掘り葉掘り聞いてないみたいだし、幽霊になってからの旭君の事は、何にも分からないんです。――旭君自身も、覚えてないみたいだから」  そこで一花は、よくある事よ、と言った。 「死んだ時のショックって、計り知れないものなの。当然でしょ? 経験した事のない感覚なんだから。幽霊になった時に生前の事を欠片も覚えていなかった人を、私は沢山見てきたわ」  差し出されたコーヒーを、万吉は手に取った。温もりをその手に感じようと、カップを両手で包み込む。 「旭君は、一に出会うまで本当に一人ぼっちだったんでしょうか」 「……そう聞いているわ」  その時だった。  カフェに置かれている電話が、けたたましく泣き叫んだ。まるで、早く取ってくれと言わんばかりに。  その大きな音に驚いて、ポアロが勢いよく吠え出す。一花は慌てて受話器を取ると、それを耳に当てた。 「もしもし、ハナかっ?」  電話の向こうにも此方の慌てっぷりがうつったのかというくらい、焦ったように声を弾ませているのは、吾郎だった。  すぐに迎えを寄越して欲しいと早口で言う彼の言葉に頷いて、一花は受話器を耳に当てたまま万吉を振り返る。万吉は一花の表情を見て頷き、カウンターから立ち上がった。 「……どうかしたの……?」  突然騒がしくなった状況の中、旭が目覚めない筈がなかった。振り返った万吉や一花の表情に、言い知れぬ不安を覚える。 「何でもないよ、心配ない。ちょっと迎えに行って来るだけ」 「キンダイチ、見つかったの!? 僕も行く!」  しかしその小さな身体を押さえる者が。 「……大丈夫。きっと無事に帰って来るから。だから此処で、一緒に待っていよう? ね?」  一花はいつの間にか、彼の身体を力一杯抱きしめていた。彼を止めようというより……出所の分からない不安を抑える事が出来なくて、ただぎゅっと彼の事を抱き締めていた。 「ハナ? 大丈夫……?」  旭の言葉に、一花は一生懸命頷く。  嫌な予感が、拭いきれない。このまま旭も一緒に行ってしまったら、何かこの子にとてつもないショックを与えてしまうんじゃないかと……。
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