9.金田一の追憶

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 三人は、探偵事務所の中で重い沈黙に押し潰されそうになっていた。話がしたいと言って吾郎と一花を呼び出したのに、これ以上何と言ったら良いのだ。苦しさに心臓が弾け飛びそうになる。  しかし一花は勿論、吾郎も彼を急かすような事はしなかった。  誰も言わないが――何か良からぬ事が起きそうだという事は、何となく察しがついていたのかもしれない。 「……これから、どうするんだ」  吾郎が呟くように尋ねた。聞いても仕方のない事だとは分かっていたが、他の言葉が思いつかなかったのだ。 「……今は、鏡の俺についてもらってます」 「診療所はどうするの?」 「どうせ人も大して来ないから大丈夫です。万が一誰かが来たとしても、診察室とは別の所に移動させたので……」  吾郎の質問には答えられず、万吉はそれきり黙り込んだ。気を紛らわすつもりで報告した今の状況だったが、そこから解決策が生まれる事もなかった。  こんな状態で、とても旭に伝える事など出来ない。彼がどんなに狼狽えるか、どんなに悲しむか……考えただけで胸が苦しくなる。万吉は頭を抱えて項垂れた。重力の重さに起こす事も出来ないような気がした。  もう戻りたくない。目を瞑ったら、セーブし忘れたゲームのように、今までの事は全部なかった事にならないだろうか。遊園地にも行かなければ、こんな事には…… 「兎に角、診療所に行ってみましょう。私たちを見れば、何か思い出すかもしれないし」  しかし一花の提案に、万吉は渋るように黙ってから小さく言った。 「……だと良いんですが」 「……どういう意味だ?」  不穏な空気が立ち込め始める。万吉はゆっくりと息を吐き切ってから、顔を上げた。 「……何やってるの」  その時、背後で声がする。どきっとして振り返ると、不安と怒りの入り混じった顔で此方を凝視する、一人の少年が。 「……何やってるんだよ。早く行こうよ。キンダイチ、いるんでしょ? どうしてお見舞いに行かないの」  旭はそう言って、胸の前できゅっと小さな手を握っていた。場の空気を感じ取って、胸が締まっているに違いない。一に何か良からぬ事が起こったんだと、感じざるを得ないのだ。 「……今から行くよ」  喉に詰まった言葉の数々から、万吉は何とかその一言を絞り出した。 「僕も行く」  間髪を入れず旭は言う。しかし万吉たちは酷く戸惑った。 「……旭君は、ハナさんと此処で――」 「僕も行く! ねぇ、良いでしょ? 何で駄目なの? 僕はキンダイチの助手なんだよ!」  旭の目には涙が滲んでいた。悔しさと悲しさの混じった色をしていた。 「酷いよ、僕だけ除け者にしてさ……皆でこそこそ何やってんだよ……」 「旭君、違うの。一はね……」 「ハナだって酷いよ! 待ってれば来るって言ってたじゃん!」  幼子の言葉にぐうの音も出ない。自分の怒声で黙り込んでしまった大人たちに、旭はくるりと背中を向け、扉の向こうへと駆け出して行った。  背後から聞こえる自分の名を呼ぶ声も無視して、ずらした墓石も戻さずに外へ飛び出す。  キンダイチが何にも覚えていない? そんな訳あるか! キンダイチは名探偵なんだぞ! 絶対僕を見たら思い出すに決まってるじゃないか! だって、だってキンダイチは――!  走り去って行く時、大きな桜の木の前を通った。見上げると、沢山の葉を携えた枝たちが、旭を見送るようにわさわさと大きく揺れている。  ――一人じゃないって、言ってくれたじゃないか。
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