9.金田一の追憶

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 自動ドアをこじ開ける。閑散とした待合スペースを駆け抜ける。診察室の扉を思い切り開け飛び込むと、そこで目を丸くしているのは万吉だった。 「……ありゃ、旭君」  驚いた拍子にどぎまぎして、彼の瞳が右往左往する。それに対して旭は真っ直ぐ彼の瞳を見つめて、一の居場所を尋ねた。 「えっと……どうしてそんな事を聞くんだ?」  時間を稼ごうとしている事くらい、旭にも手に取るように分かった。旭は彼の返答を待たずに、ずかずかと診察室の中へ入って来る。 「ちょ……っと待って、な?」  その時初めて、旭は万吉の正体に気が付いた。彼が慌てて自分の腕を掴む際、彼の右手に付けられた腕時計を見たのだ。伊達に探偵の助手をやっている訳ではない。 「ニセモノは関係ないだろっ!」  そう叫んで腕を振り払う。万吉は動揺したのか、駆け出す旭の背中を呆気に取られて眺めてしまった。  診察室にはもう一つ扉がある。万吉は確か物置に使っていた。何度か遊びに来た時に、よく此処へ隠れて、万吉を驚かして遊んでいた。  扉のノブに手を掛けた時、漸く我に返った万吉の声が聞こえた。けれどその言葉に、もう旭を止める力はない。彼の言葉を掻き消すように扉を開け、中へと飛び込んだ。 「キンダイチ……!」  慌てて拵えたのであろうベッドに横になっているその影は、確かに一番大好きな彼の姿だった。  まだ夢の中にいるのを知ってか知らずか、兎に角旭は一の身体に抱き着いた。 「キンダイチぃ! あぁ、良かったぁ……!」  さっきまで溢したかった涙を我慢していて良かった、と旭は思った。  ぎゅっと握った小さな拳に気付いたのか、一が微かな動きを見せた。ゆっくり目を開き、暫しぼんやりする。 「キンダイチ、僕だよ、旭だよ……ねぇ、覚えてるでしょ?」  旭は彼の顔を覗き込んだ。しかし、何故かその目と目が合っているような気がしない。  恐る恐る、彼の名をもう一度呼ぶ。消えかけていた嫌な予感が、ふつふつとまたせり上がって来る。何だか気分が悪くなって来た。  一はむくりと起き上がり、自分の身体や布団を捲って何かを探している。 「何してんだよ……僕は、此処だよ……?」  信じたくない。もしかして、もしかしてキンダイチは……  その時、背後から腕を掴まれた。もう振り返る必要もなかった。 「あ、先生」  待ち望んでいた一の言葉は、その一言だった。万吉は彼に向かって微笑むと、よく眠れた? と尋ねる。それから少し彼らの会話が続いたが、旭の耳には全く入って来なかった。 「それじゃ、僕はもう少し仕事をするから、ゆっくり休んで」 「ありがとうございます……」  万吉は引き攣った笑顔を浮かべながら、旭の手を引き部屋を後にしていく。不思議そうにその様子を眺める一の視線が、万吉には痛くて堪らなかった。 「だから行くんじゃないって言ったのに」  診察室に戻ると、目の前に万吉の姿があった。心配そうになのか迷惑そうになのか分からなかったが、彼の表情は歪んでいるのは確かだった。  鏡の万吉の手が離れると、一花が駆け寄ってきて力一杯抱き締めた。 「ごめんね、ちゃんと話してあげなくて……悲しかったよね……」  彼女は言ったが、旭にはよく分からなかった。これを悲しいと捉えるべきなのか、どうすればいいのか……涙が出る以前に、彼は放心状態だったのだ。 「……一は生前、そういうのが見える人間じゃなかったんだ」  万吉が、漸く重たい口を開いた。 「てんでそういうのには鈍感って言うか……だから人間に戻ったのなら、その通りになっちまうんじゃないかって、心配はしていたんだけど……」  やっぱりな、と言うまで息が続かなかった。しかしそれは良かった事だろう。もうこれ以上追い打ちをかけるような事はしたくない。  部屋の中をまた、重い沈黙が支配し尽くす、まさにその瞬間――  ――こんこん。  沈黙を破ったのは誰の声でもなく、軽快に響く物音。 「先生、今宜しいですかぁ?」  扉の向こうからするのは、仁の声だった。
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